角優れぬ勝の、口小言のみ喧《やかま》しいのへ、信吾は信吾で朝晩の惣菜まで、故障を言ふ性《たち》だから、人手の多い家庭ではあるが、靜子は矢張一日何かしら用に追はれてゐる。それも一つの張合になつて、兄が歸つてからというふもの、靜子はクヨ/\物を思ふ心の暇もなかつた。
一體この家庭には妙な空氣が籠つてゐる。隱居の勘解由《かげゆ》はもう六十の阪を越して體も弱つてゐるが、小心な、一時間も空《むだ》には過されぬと言つた性《たち》なので、小作に任せぬ家の周圍の菜園から桑畑林檎畑の手入、皆自分が手づから指揮して、朝から晩まで戸外に居るが、その後妻のお兼とお柳との仲が兎角面白くないので、同じ家に居ながらも、信之親子と祖父母や其子等(信之には兄弟なのだが)とは、宛然《さながら》他人の樣に疎々《うと/\》しい。一家顏を合せるのは食事の時だけなのだ。
それに父の信之は、村方の肝煎《きもいり》から諸附合、家にゐることとては夜だけなのだ。從つて、癇癪持のお柳が一家の權を握つて、其一|顰《ぴん》一|笑《せう》が家の中を明るくし又暗くする。見やう見まねで靜子の二人の妹――十三の春子に十一の芳子、まだ七歳にしかならぬ三男の雄三といふのまで、祖父母や昌作、その姉で年中病床にゐるお千世などを輕蔑する。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》間に立つてゐる温なしい靜子には、それ相應に氣苦勞の絶えることがない。實際、信吾でも歸つて色々な話をしてくれたり、來客でもなければ、何の樂みもないのだ。尤も、靜子は譬へ甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》事があつても、自分で自分の境遇に反抗し得る樣な氣の強い女ではないのだが。
畫家の吉野滿太郎が來たのは、又しても靜子に一つの張合を増した。吉野の、何處か無愛相な、それでゐてソツのない態度は、先づ家中の人に喜ばれた。左程長くはないが、信吾とは隨分親密な間柄で(尤も吉野は信吾を寧ろ弟の樣に思つてるので)この春は一緒に畿内の方へ旅もした。今度はまた信吾の勸めで一夏を友の家に過す積りの、定つた職業とてもない、暢氣《のんき》な身上なのだ。
言ふまでもなく信吾は、この遠來の友を迎へて喜んだ。それで取敢へず離室《はなれ》の八疊間を吉野の室に充てゝ、自分は母屋《おもや》の奧座敷に机を移した。吉野と兄の室の掃除は、下女の手傳もなく主に靜子がする。兎角、若い女は若い男の用を足すのが嬉しいもので。
それ許りではない、靜子にはも一つ吉野に對して好感情を持つべき理由があつた。初めて逢つた時それは氣が附いたので。吉野は顏容《かほかたち》些《ちつ》とも似ては居ないが、その笑ふ時の目尻の皺が、怎うやら、死んだ浩一――靜子の許嫁――を思ひ出させた。
生憎と、吉野の來た翌日から、雨が續いた。それで、客も來ず、出懸ける譯にもいかず、二日目三日目となつては吉野も大分退屈をしたが、お蔭で小川の家庭の樣子などが解つた。昌作も鮎釣にも出られず、日に幾度となく吉野の室を見舞つて色々な話を聞いたが、畫の事と限らず、詩の話、歌の話、昌作の平生飢ゑてる樣な話が多いので、もう早速吉野に敬服して了つた。
降りこめた雨が三十一日(七月)の朝になつて漸く霽《あが》つた。と、吉野は、買物旁々、舊友に逢つて來ると言つて、其日の午後、一人盛岡に行くことになつた。
二
雨後の葉月空が心地よく晴れ渡つて、目を埋むる好摩《かうま》が原の青草は、緑の火の燃ゆるかと許り生々とした。
小川の家では折角下男に送らせようと言つて呉れたのを斷つて、教へられた儘の線路傳ひ、手には洋杖《ステッキ》の外に何も持たぬ背廣|扮裝《いでたち》の輕々しさ、畫家の吉野は今しも唯一人好摩停車場に辿り着いた。
男神の如き岩手山と、名も姿も優しき姫神山に挾まれて、空には塵一筋浮べず、溢るゝ許りの夏の光を漂はせて北上川の上流に跨つた自然の若々しさは、旅慣れた身ながらも、吉野の眼には新しかつた。その色彩の單純なだけに、心は何となき輕快を覺え、唆かす樣な草葉の香りを胸深く吸つては、常になき健康を感じた。日頃、彼の頭腦を支配してゐる種々の形象と種々の色彩の混雜《こんがらが》つた樣な、何がなしに氣を焦立《いらだ》たせる重い壓迫も、彼の老ゆることなき空の色に吸ひ取られた樣で、彼は宛然《さながら》、二十前後の青年の樣な足取で、ついと停車場の待合所に入つた。
眩い許りの戸外の明るさに慣れた眼には、人一人居ない此室の暗さは土窟にでも入つた樣で、暫しは何物も見えず、ぐら/\と眩暈《めまひ》がしさうになつたので、吉野は思はず知らず洋杖に力を入れて身を支へた。手巾を出して顏の汗を拭き乍ら、衣嚢《ポケット》の銀時計を見ると、四時幾分と聞いた發車時刻にもう間がない。急いで盛岡行の赤切符を買つて改札口へ出ると、
『向側からお乘りなさい。』
と教へ乍ら背の低い驛夫が鋏を入れる。チラと其時、向側のプラットホームに葡萄茶《えびちや》の袴を穿いた若い女の立つてゐるのが目についた。それは日向智惠子であつた。
智惠子の方でも其時は氣が附いて居たが、三四日前に橋の上で逢つた限り、名も知り顏も知れど、口一つ利いたではなし、さればと言つて、乘客と言つては自分と其男と唯二人、隱るべき樣もないので、素知らぬ振も爲難い。夏中逗留するといへば、怎うせ又顏を合せなければならぬのだ。
それで、吉野が線路を横切つて來るのを待つて、少し顏を染め乍ら輕くS卷の頭を下げて會釋した。
『や、意外な處でお目に懸ります。』と餘り偶然な邂逅を吉野も少し驚いたらしい。
『先日は失禮致しました。』
『怎うしまして、私こそ……。』と、脱《と》つた帽子の飾紐《リボン》に切符を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き拔けている、第4水準2−13−28]みながら、『フム、小川の所謂|近世的婦人《モダーンウーマン》が此|女《ひと》なのだ!』と心に思《おも》つた。
そして、體を捻つて智惠子に向ひ合つて、『後で靜子さんから承つたんですが、貴女は日向さんと被仰《おつしや》るんですね?』
『は、左樣で御座います。』
『何れお目に懸る機會も有るだらうと思つてましたが、僕は吉野と申します。小川に居候に參つたんで。』
『お噂は、豫て靜子さんから承つて居りました。』
『來たよう。』と驛夫が向側で叫んだので、二人共目を轉じて線路の末を眺めると、遠く機關車の前部が見えて、何やらキラ/\と日に光る。
『今日は何處《どちら》まで?』
『盛岡までゝ御座います。』
『成程、學校は明日から休暇なさうですね。何ですか、お家は盛岡で?』
『否《いゝえ》。』と智惠子は愼しげに男の顏を見た。『學校に居りました頃からの同級會が、明後日大澤の温泉に開かれますので、それであの、盛岡のお友達をお誘ひする約束が御座いまして。』
『然うですか。それはお樂しみで御座いませう。』と鷹揚に微笑を浮べた。
『貴方は何處《どちら》へ?』
『矢張りその盛岡までゝす。』
吉野は不圖、自分が平生《いつ》になく流暢に喋つてゐたことに氣が附いた。
列車が着くと、これは青森上野間の直行なので車内は大分込んでゐる。二人の外には乘る者も、降りる者もない。漸くの事で、最後の三等車に少しの空席を見附けて乘込むと、その扉を閉め乍ら車掌が號笛《ふえ》を吹く。慌しく汽笛が鳴つて、ガタリと列車が動き出すと、智惠子はヨロヨロと足場を失つて思はず吉野に凭《よ》り掛《かゝ》つた。
三
吉野は窓際へ、直ぐ隣つて智惠子が腰を掛けたが、少し體を動かしても互いの體温を感ずる位窮屈だ。女は、何がなしに自分の行動――紹介もなしに男と話をした事――が、はしたない樣な、否、はしたなく見られた樣な氣がして、「だつて、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》切懸《きつかけ》だつたんだもの。」と心で辯疏《いひわけ》して見ても、怎《どう》やら氣が落着かない。乘合の人々からジロ/\顏を見られるので、仄《ほんの》りと上氣してゐた。
北上山系の連山が、姫神山を中心にして、左右に袖を擴げた樣に東の空に連つた。車窓の前を野が走り木立が走る。時々、夥しい草葉の蒸香《いきれ》が風と共に入つて來る。
程なく列車が轟と音を立てゝ松川の鐵橋に差かゝると、窓外を眺めて默つてゐた吉野は、『あ、あれが小川の家ですね。』
と言つて窓から首を出した。線路から一町程離れて、大きい茅葺の家、その周圍に四五軒農家のある――それが川崎の小川家なのだ。
首を出した吉野は、直ぐと振返つて、
『小川の令妹《シスタア》が出てますよ。』
『あら。』と言つて、智惠子も立つたが、怎う思つてか、外から見られぬ樣に、男の後ろに身を隱して、そつと覗いて見た。
靜子は妹共と一緒に田の中の畦道《あぜみち》に立つて、手巾《ハンカチ》を振つてゐる。妹共は何か叫んでるらしいが、無論それは聞えない。智惠子は無性に心が騷いだ。
帽子を振つてゐた吉野が、再び腰を掛けた時は、智惠子は耳の根まで紅くして極り惡る氣に俯向いてゐた。靜子の行動が、偶然か、はた心あつて見送つたものか、はた又吉野と申合せての事か、それは解らないが、何れにしても智惠子の心には、萬一自分が男と一緒に乘つてゐる事を、友に見られはしないかといふ心配が、強く動悸を打つた。吉野はその、極り惡る氣な樣子を見て、『小川の所謂|近代的婦人《モダーンウーマン》も案外|初心《うぶ》だ!』と思つたかも知れない。
その實男も、先刻汽車に乘つた時から、妙に此女と體を密接してゐることに壓迫を感じてゐるので、それを紛《まぎ》らかさうとして、何か話を始め樣としたが、兎角、言葉が喉に塞《つま》る。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》筈はないと自分で制しながらも、斷々《きれ/″\》に、信吾が此女を莫迦《ばか》に讃めてゐた事、自分がそれを兎や角冷かした事を思出してゐたが、腰を掛けるを切懸《きつかけ》に、
『貴女は、何日お歸りになります?』と何氣なく口を切つた。
『三日に、あの歸らうと思つてます。』
『然うですか。』
『貴方は?』
『僕は何日でも可いんですが、矢張り三日頃になるかも知れません。』と言つたが不圖思ひついた事がある樣に、
『貴女は盛岡の中學に圖畫の教師をしてる男を御存じありませんか? 渡邊金之助といふ?』
『存じて居ります。』と、智惠子は驚いた樣な顏をする。
『貴方《あなた》はあの、あの方と同じ學校を……?』
『然うです。美術學校で同級だつたんですが、……あゝ御存知ですか! 然うですか!』と鷹揚《おうやう》に頷《うなづ》いて、『甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》で居るんでせう? まだ結婚しないでせうか?』
『え、まだ爲《な》さらない樣ですが。』と、※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つた眼を男に注いで、『貴方はあの、渡邊さんへ被行《いらつしや》るんで御座いますか。』
『え、突然訪ねて見ようと思ふんですがね。』と、少し腑に落ちぬ樣な目附をする。
『まあ、左樣で御座いますか!』と一層驚いて、『私もあの、其家《そこ》へ參りますので……渡邊さんの妹|樣《さん》と私と、矢張り同じ級《クラス》で御座いまして。』
『妹樣と? 然うですか! これは不思議だ!』と吉野も流石に驚いた。
『あの、久子さんと被仰《おつしや》います……。』
『然うですか! ぢや何ですね、貴女と僕と同じ家に行くんで! これは驚いた。』
『マア眞箇《ほんと》に!』と言ひ乍ら、智惠子は忽ち或る不安に襲はれた。靜子の事が心に浮んだので。
第七
一
宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣に出懸けた。
休暇になつてからの學校ほど伽藍堂《がらんどう》[#「伽藍堂」は底本では「伽籃堂」]に寂しいものはない。建物が大きいのと平生耳を聾する
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