樣な喧騷に充ちてるのとで、日一日、人ツ子一人來ないとなると、俄かに荒れはてた樣な氣がする。常には目立たぬ塵埃が際立つて目につく。職員室の卓子の上も、硯箱や帳簿やら、皆取片附けられて了つて、其上に薄く塵が落ちた。
 懶いチクタクの音を響かせてゐる柱時計の下で、富江は森川の歸りを待つ間の退屈に額に汗をかきながら編物をしてゐた。暑い盛りの午後二時過、開け放した窓から時々戸外を眺めるが、烈々たる夏の日は目も痛む程で、うなだれた木の葉にそよ[#「そよ」に傍点]との風もなく、大人は山に、子供らは皆川に行つた頃だから、四邊が妙に靜まり返つてゐる。其處へブラリと昌作が、遣つて來た。
『暑いでせう外は。先刻《さつき》から眠くなつて/\爲樣《しやう》のないところだつたの。』と富江は椅子を薦《すゝ》める。年下の弟でも遇《あし》らふ樣な素振りだ。
 それに慣れて了つて、昌作も挨拶するでもなく、『暑い暑い』と帽子も冠らずに來た髮のモヂャ/\した頭に手を遣つて、荒い白絣の袖を肩に捲《まく》り上げた儘腰を下した。
『森川君は?』
『鮎釣に行つたの。釣れもしないくせに。』
『すると何だな、貴女が留守役を仰附かつてゐたんだな。ハハヽヽ好い氣味だ。』
『口の惡い! 何が好い氣味なもんですか。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事を言ふとお茶菓子を買ひませんよ。』と睨んで見せる。
『フム。』と昌作は妙に濟し込んで、『御勝手に。』
『まあ口許りぢやない人が惡くなつたよ、子供の癖に!』と言ひながら、手を延ばして呼鈴の綱を引いて、
『然う/\、一昨日は御馳走樣。お客樣はまだ歸つてらつしやらないの?』
『あーい。』と彼方で眠さうな聲。
『まだ。今日か明日歸るさうだ。吉野|樣《さん》がゐないと俺は薩張《さつぱ》り詰らないから、今日は莫迦に暑いけれども飛出して來たんだ。』
『生憎と日向樣もまだ歸らないの。』と富江は調戲《からか》ふ眼附で青年の顏を見た。其處へ白髮頭の小使が入つて來て用を聞いたので、女は何かお菓子を買つて來いと命ずる。
『そら、到頭買うんだ。』と昌作はしたり顏。
『私が喰べるのですよ、誰が昌作さんなんかに上げるもんですか。』と減《へ》らず口を叩《たゝ》いて、
『よ、昌作さん、ハイカラの智惠子さんもまだ歸らないの。』
『フム。』
『何がフムですか。昌作さんの歌を大變賞めてるから、行つて御禮を被仰《おつしやい》よ。』
『フム。家の信吾ぢやないし。』
『え? 信吾さんが?』
『知らない。』
『信吾さんが行くの? マア好い事聞いた。ホホヽヽヽヽ、マア好い事聞いた。』
と、富江は彈《はじ》けた樣に一人で騷いで、
『マア好い事聞いた、信吾さんが智惠子さんの許《とこ》へ行くの。今度逢つたらうんと揶揄《からか》つて上げよう。ホホヽヽ。』
 昌作は冷かに其顏を眺めてゐたが、
『可けない/\。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》話、吉野さんの前なんかで言つちや可けませんぞ。』
『あら、怎《ど》うして?』と忙しい眼づかひをする。
『だつて、詰らないぢやないですか。』
『詰らない? 言ひますよ私。』
『詰らない! 第一吉野さんの前で其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事が言へますか? 豪い人だ。信吾の友達には全く惜しい人だ。』
『まあ、大層見識が高くなつたのね?』
 すると昌作は、忽ち不快な顏をして默つた。
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に豪いの、その方は?』
『時にですな、』と昌作は附かぬ事を言ひ出した。『今日は貴女に用を頼まれて來たんだ。』
『オヤ、誰方から?』
 其時小使が駄菓子の袋を恭しく持つて入つて來た。

      二

『當てゝ御覽なさい。』と昌作はしたり顏に拗《す》ねる。
 其顏を、富江はマジ/\と見てゐたが、小使の出てゆくのを待つて、
『信吾さんから?』
 ピクリと昌作の眉が動いた。そして眼鏡の中で急しく瞬きをし乍ら顏を大きく横に振る。
『そんなら、誰方?』
『無論、貴女の知つた人からだ。』と小憎らしく濟したものだ。
『懊《じれ》つたい!』と自暴《やけ》に體を顫はせて、
『よ、誰方《どなた》からつてばさ。』
『ハッハハ、解りませんか?』と、何處までも高く踏んで出る。
『好いわ、もう聞かなくつても。』
『それぢや俺が困る。實はですね。』
『知りません。』
『登記所の山内君からだ。以前貴女から「戀愛詩評釋」といふ書を借りたことがあるさうだ。それを又讀みたいから俺に借りて來て呉れと言ふんですがね。』
『オヤ、何故御自分で被來《いらつしや》らないでせう?』
『だつて寢てるんだもの。』
『ぢやもう、床に就いたの?』と低めに言つて、胡散《うさん》臭い眼附をする。
『一昨日俺と鮎釣に行つて、夕立に會つたんですよ。それで以て山内は弱いから風邪を引いたんだ。』
『あら昌作さん、山内さんは肺病だつたんぢや有りませんか?』
『肺病?』と正直に驚いた顏をしたが『嘘だ!』
『嘘なもんですか。始終《しよつちう》那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》妙な咳をしてゐたぢやありませんか。……加藤さんがそ言つてるんですもの。』
『肺病だと?』
『え。』と氣がさした樣に聲を落して、『だけど私が言つたなんか言つちや厭よ。よ、昌作さん貴方も傳染《うつ》らない樣に用心なさいよ。』
『莫迦な! 山内は那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》小さい體をしてるもんだから、皆で色々な事を言ふんだ。俺だつて咳はする――。』
『馬の樣な咳を。ホホヽヽ。』と富江は笑つて、『誰がまた、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]一寸法師さんを一人前の人|待遇《あつかひ》にするもんですか。』
 そして取つて附けた樣にホホヽヽと又笑つた。
『だから不可《いけ》ない。』と昌作は錆びた聲に力を入れて、『體の大小によつて人を輕重するといふ法はない。眞箇に俺は憤慨する。家の奴等も皆|然《さ》うだ。』
『然《さ》うでないのは日向のハイカラさん許りでせう!』
 昌作は聞かぬ振をして、『英吉利の詩人にポープといふ人が有つた。その詩人は、佝僂《せむし》で跛足《びつこ》だつたさうだ。人物の大小は體に關らないさ。』と、三文雜誌でゞも讀んだらしい事を豪さうに喋る。
『大層力んで見せるのね。だけれど山内樣は別に大詩人でもないぢやありませんか?』
『それは別問題だ。……』と正直に塞つて、『それは然うと、今言つた書を貸して下さい。』
『家に置いてあるの。』
『小使を遣つて取寄せて呉れるさ。』と頼む樣な調子で。
『肺病患者なんかに!』獨言つ樣に言つて、『あのね、昌作さん。』と可笑しさを怺《こら》へた樣な眼附をする。『恁《か》う言つて下さいな山内さんに。あのね、評釋なんか無くつて解るぢやありませんかつて。』
『え? 何ですつて?』と昌作は眞面目に腑に落ちぬ顏をする。
『ホホヽヽヽ。』と、富江は一人高笑ひをした。そして『書《ほん》はね、後で誰かに屆けさせますよ。』
 一時間程經つて、昌作は、來た時の樣にブラリと、帽子も冠らず、單衣の兩袖を肩に捲くり上げて、長い體を妙に氣取つて、學校の門を出た。
 そして川崎道の曲角まで來た時、二三町彼方から、深張りの橄欖色《おりいぶいろ》の傘をさした、海老茶の袴を穿いた女が一人、歩いて來るのに目をつけた。『ハハア、歸つて來たナ。』と呟いて、足を淀めたが、ついと横路へ入る。
 三日前に畫家の吉野と同じ汽車に乘合せて、大澤温泉に開かれた同級會へ行つた智惠子は、今しも唯一人、町の入口まで歸つて來た。

      三

 小川家の離室《はなれ》には、畫家の吉野と信吾とが相對してゐる。吉野は三十分許り前に盛岡から歸つて來た所で、上衣を脱ぎ、白綾の夏|襯衣《ちよつき》の、その鈕まで脱《はづ》して、胡座《あぐら》をかいた。
 その土産らしい西洋菓子の凾を開き茶を注《つ》いで、靜子も其處に坐つた。母屋の方では、キヤッ/\と妹共の騷ぐのが聞える。
『だからね。』と吉野は其友渡邊の噂を續けた。
『僕は中學の畫の教師なんかやるのが抑も愚だと言つて遣《や》つたんだ。奴だつて學校にゐた時分は夢を見たものよ。尤も僕なんかより遙《ずつ》と常識的な男でね。靜物の寫生なんかに凝つたものだ。だが奴が級友の間でも色彩の使ひ方が上手でね、活きた色彩を出すんだ。何色彩《なにいろ》を使つても習慣《コンベンション》を破つてるから新しいんだよ。何時かの展覽會に出した風景と靜物なんか黒人《くろうと》仲間ぢや評判が好かつたんだよ。其奴が君、遊びに來た中學生に三宅の水彩畫の手本を推薦してるんだからね。……僕は悲しかつたよ。否《いや》悲しいといふよりは癪に障つたよ。何といふのかな、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]具合で到頭埋もれて了ふのを。平凡の悲劇とでも言ふかな……。』
『だつて君。』と信吾は委細呑込んだと言つた樣な顏をして、『其人にだつて家庭の事情てな事が有らあな。一年や二年中學の教師をした所で、畫才が全然滅びるつて事も無からうさ。』
『それがよ、家庭の事情なんて事がてんで可《よ》くない。生活問題は誰にしろ有るさ。然し藝術上の才能は然うは行かない。其奴が君、戰つても見ないで初めつから生活に降參するなんて、意氣地が無いやね。……とまあ言つて見たんさ、我身に引較べてね。』
『ハハヽヽ。君にも似合はんことを言ふぢやないか。』とゴロリ横になる。
 其處へ、庭に勢ひのいゝ下駄の音がして、昌作が植込の中からヒョックリと出て來た。今しも町から歸つて來たので。
『やあ、お歸りになりましたな。』と吉野に聲をかける。
『否、も少し先に。今日も貴方は鮎釣でしたか?』
『否《いゝえ》。』と無造作に答へて縁側に腰を掛けた。『吉野さん、貴方、日向さんと同じ汽車でしたらう?』
『え?』と靜子が聞耳を立てる。
『然う、然う。』と、吉野は今迄忘れてゐたと言つた樣に言つて、靜子の方に向いた。『それ、過日《こなひだ》橋の上に貴女と二人立つてゐた方ですね。あの方と今日同じ汽車に乘りましたよ。』
『あら智惠子さんと。然うでしたか! よくお解りになりましたね。』と莞爾《につこり》、何氣なく言つた。
『否《いや》その、何です、今話した渡邊の家で紹介されたんです。渡邊の妹君《シスタア》と親友なんださうで、偶然同じ家に泊つた譯なんです。』と、吉野は急しく眼をぱちつかせ乍ら、無意識に煙草に手を出す。
『オヤ然うでしたの!』
『然うかい!』と信吾も驚いて、『それは奇遇だつたな。實に不思議だ。』
『別段奇遇でも無からうがね。唯逢つただけよ。』と、吉野は顏にかゝる煙草の煙に大仰《おほぎやう》に眉を寄せる。
『昌作さんは何ですか、日向さんと逢つて來たの?』と信吾が横になつた儘で問うた。
『否《いや》。歸つて來た所を遠くから見ただけだ。』
『よつぽど遠くからね? ハヽヽ。』
 昌作はムッとした顏をして、返事はせずに、吉野の顏色を覗つた。
 然うしてる所へ、母屋の方には賑かな女の話聲。下女が前掛で手を拭きながらバタ/\驅けて來て、[#「來て、」は底本では「來て」]
『若旦那樣、お孃樣、板垣樣の叔母樣が盛岡からお出《で》アンした。』
『アラ今日|被來《いらしつ》たの。明日かと思つたら。』と、靜子は吉野に會釋して怡々《いそ/\》下女の後から出て行く。
『父の妹が泊懸《とまりがけ》に來たんだ。一寸行つて會つてくるよ。』
と信吾も立つた。昌作は何時の間にか居ない。
 吉野は眉間の皺を殊更深くして、ぢつと植込の邊に瞳を据ゑてゐた。

   其八

      一

 智惠子は渡邊の家に一泊して、渡邊の妹の久子といふのと翌一日大澤の温泉に着いたのであつ
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