た。その夕方までには、二十幾名の級友大方臨溪館といふ温泉宿の二階に、縣下の各地方から集つた。
兎角女といふものは、學校にゐる時は如何に親しくしても、一度別れて了へば心ならずも疎《うと》くなり易い。それは各々の境遇が變つて了ふ爲めで、智惠子等のそれは、卒業してからも同じ職業に就いてるからこそ、同級會といふ樣なものも出來るのだ。三年の月日を姉と呼び妹と呼んで一棟の寄宿舍に起臥を共にした間柄、校門を辭して散々に任地に就いてからの一年半の間に、身に心に變化のあつた人も多からうが、さて相共に顏を合せては、自から氣が樂しかつた寄宿舍時代に歸つた。數限りなき追憶が口々に語られた。氣輕な連中は、階下の客の迷惑も心づかず、その一人が彈くヴアイオリンの音に伴れてダンスを始めた。恁くて此若い女達は翌二日の夜更までは何も彼も忘れて樂みに醉うた。缺席したのは四人、その一人は死に、その一人は病み、他の二人は懷姙中とのことで。――結婚したのはこの外にも五六人あつた。
各々の任地の事情が、また、事細かに話し交された。語るべき友の乏しいという事、頭腦の舊い校長の惡口、同じ師範出の男教員が案外不眞面目な事、師範出以外の女教員の劣等な事、これらは大體に於て各々の意見が一致した。中に一人、智惠子の村の加藤醫師と遠縁の親戚だといふのがあつた。その女から、智惠子は清子に宛てた一封の手紙を托された。
その手紙を屆けるべく、智惠子は澁民に歸つた翌日の午前、何氣なく加藤醫院を訪れたのであつた。
玄關には、腰掛けたのや、上り込んだのや、薄汚ない扮裝をした通ひの患者が八九人、詰らな相な顏をして、各自《てんで》に藥瓶の數多く並んだ棚や粉藥を分量してゐる小生意氣な藥局生の手先などを眺めてゐた。智惠子が其處へ入ると、有つ丈の眼が等しく其美しい顏に聚《あつま》つた。
『奧樣は?』
『ハイ。』と答へて、藥局生は匙を持つた儘中に入つてゆく。居並ぶ人々は狼狽へた樣に居住ひを直した。諄々《くど/\》と挨拶したのもあつた。
今朝髮を洗つたと見えて、智惠子は房々とした長い髮を、束ねもせず、緑の雲を被いだ樣に、肩から背に豐かになびかせた。白地に濃い葡萄色の矢絣の新しいセルの單衣に、帶は平常のメリンス、そのきちん[#「きちん」に傍点]としたお太鼓が搖めく髮に隱れた。
少し手間取つて、倉皇《そゝくさ》と小走りに清子が出て來た。
『まあ日向先生、何日お歸りになりましたの? さ何卒《どうぞ》。』
『は有難う。昨日夕方に歸りました許りで。』
『お樂みでしたわねえ。さ何卒お上り下さいまし、……あの小川さんのお客樣も被來《いらし》てますから。』
『は?』と智惠子は、脱ぎかけた下駄を止めた。
『吉野さんとか被仰る、畫をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰つてで御座いますよ。』
『あの、吉野さんが?』
『え。宅が小川さんで二三度お目にかゝりました相で、……昌作さんとお二人。ま何卒《どうぞ》。』
『は有難う。あのう……』と言ひ乍ら智惠子は懷から例の手紙を取出して、手短に其由來を語つて清子に渡した。
『ま然うでしたか。それは怎うも。……それは然うと、さ、さ。』と。手を引く許りにする。
『あの一寸學校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』
『あら、日向樣、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、
『眞箇《ほんと》よ、奧樣。何れ後で。』
智惠子は逃げる樣にして戸外に出た、と、忽ち顏が火の樣に熱つて、恐ろしく動悸がしてるのに氣がついた。
二
加藤の玄關を出た智惠子は、無意識に足が學校の方へ向つた。莫迦に胸騷ぎがする。
「何故|那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に狼狽《うろた》へたらう?」恁う自分で自分に問うて見た。
「何故那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に狼狽《うろた》へたらう? 吉野さんが被來《いらしつ》てゐたとて! 何が怖かつたらう! 清子さんも可笑しいと思つたであらう! 何故那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に狼狽《うろたへ》たらう? 何も譯が無いぢやないか!」
理由は無い。
智惠子は一歩毎に顏が益々上氣して來る樣に感じた。何がなしに、吉野と昌作が後ろから急ぎ足で追驅けて來る樣な氣がする。それが、一歩々々に近づいて來る……
其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事は無い、と自分で譴《たしな》めて見る、何時しか息遣ひが忙しくなつてゐる。
取留めもなく氣がそはついてるうちに歩くともなくもう學校の門だ。つと入つた。
職員室の窓が開いて、細い竿釣が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シャツ一枚になつて、一生懸命釣道具を弄《いぢく》つてゐた。
不圖顏を上げると、
『オヤ、日向さん、何時お歸りになりました?』
『は、あの、昨日夕方に。』と、外に立つて頭を下げる。洗ひ髮がさらりと肩から胸へ落つる。智惠子は、うるさい樣にそれを手で後ろにやつた。
『面白かつたでせう? さ、まあお上りなさい。』
『否《いゝえ》、あの。』と息が少し切れる。『あの私宛の手紙でも參つてゐませんでせうか?』
『奈何《どう》でしたか! あ、來ませんよ、神山樣の方の間違です。まあお上りなさい。』
『は有難う御座います。一寸あの、一寸、後ろの山へ行つて見ますから。』
『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハヽヽ。ま可いでせう?』
『は、何れ明日でも。』と行掛ける。
『あ、日向樣、貴女《あなた》に少しお願ひがありますがねえ。』
『何で御座いますか?』
『何有《なあに》眞《ほん》の些とした事ですがね。』と、森川は笑つてゐる。
『何で御座いますか、私に出來る事なら……。』と智惠子は何時になく焦《もど》かし相な顏をした。
『出來る事ですとも。』また笑つて、『その何ですよ、過日《こなひだ》、否《いや》昨日か、神山樣にも一日お願ひしたんですがね。その、私は鮎釣に行きますから、御都合の可い時一日學校に被來《いらつしや》つて下さいませんか?』
『は、可《よ》う御座いますとも。何日《いつ》でも貴方の御出懸けになる時は、あの大抵の日は小使をお寄越し下されば直ぐ參ります。』
『然うですか。ぢやお願ひ致しますよ、濟みませんが。』
『何日でも……。』と言つて智惠子は、足早に裏の方に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。
裏は直ぐ雜木の山になつて、下暗い木立の奧がこんもりと仰がれる。校舍の屋根に被《かぶ》さる樣になつた青葉には、楢もあれば、栗もある。鮮やかな色に重なり合つて。
便所の後ろになつてゐる上り口から、智惠子はスタスタと坂を登つた。
木立の中から、心地よく濕つた風が顏へ吹く。と、そのこんもりした奧から樂しさうな晝杜鵑《ひるほとゝぎす》の聲。
聲は小迷《さまよ》ふ樣に、彼方此方《あちこち》、梢を渡つて、若き胸の轟きに調べを合せる。
智惠子は躍る樣な心地になつて、つと青葉の下蔭に潜り込んだ。
三
やゝ急な西向の傾斜、幾年の落葉の朽ちた土に下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、處々、虎斑《とらふ》の樣に影を落して、そこはかとなく搖めいた。細き太き、數知れぬ樹々の梢は參差として相交つてゐる。
唆かす樣な青葉の香が、頬を撫で、髮に戲れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。
『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隱れた晝杜鵑が啼く。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な、若い胸の底から漂ひ出る樣な聲だ。その聲が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何處ともなき青葉の戰《さや》ぎ!
と、少し隔つた彼方から、『ククヽヽクウ』と同じ聲が起る。
『ククヽヽクウ。ククヽヽクウ。』と、後の方からも。
『漂へる聲《ワンダリングブォイス》』とライダル湖畔の詩人が謳つた。それだ、全くそれだ。甘き青葉の香を吸ひ、流れるこの鳥の聲を聞いては、身は詩人でなくても、魂が胸を出て、聲と共にそこはかとなく森の下蔭を小迷《さまよ》ふてゆく思ひがする。
聲の所在《ありか》を覓《もと》むる如く、キョロ/\と落着かぬ樣に目を働かせて、徑もなき木陰地《こさぢ》の濕りを、智惠子は樹々の間を其方に拔け此方に潜る。夢見る人の足取とは是であらう。髮は肩に亂れ、胸に波打ち、はら/\と顏にも懸る。それを拂はうとするでもない。
故もなく胸が騷いでゐる。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な……宛ら葉隱れの鳥の聲の、何か定めなき思ひが、總身の脈を亂してゐる。
『ククヽヽクウ』と鳥の聲。
「私ほど辛い悲いものはない!」
恁う譯のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。たゞ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。
「吉野さんが町に、加藤の家に來てゐる。」智惠子に解つてるのは之だけだ。
初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の容子は、今猶明かに心に殘つてゐる。然し言葉を交したでもない。友の靜子は耳の根迄紅くなつてゐた。その靜子は又、自分とあの人が端なくも汽車に乘合せて盛岡に行く時、田圃に出て手巾を振つた。靜子の底の底の心が、何故か自分に解つた樣な氣がする。
『何故あの時、私はあの人の後ろに隱れたらう?』恁う智惠子は自分に問うて見る。我知らず顏が紅くなる。
其晩、同じく久子の家に泊つた。久子兄妹とあの人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の夜の風を、四人は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に嬉しんだらう! 久子の兄とあの人との會話が、解らぬ乍らに甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に面白かつたらう!
『君は天才なんだ。』恁う久子の兄が幾度か眞摯に言つた。何かの話の時、『矢張り女といふものは全く放たれる事が出來ん。男は結局一人ぽつちよ、死ぬまで。』とあの人が言つた!
翌日久子と大澤に行つて、昨日午前再び下小路なる久子の家まで歸つた。
『日向樣は何日お歸りになります!』恁うあの人が言つた。
『明日になさいな、ねえ!』と久子が側から言つた。
『吉野さんも然う遊ばせな何卒《どうぞ》。』
『否《いや》、僕は今日午後に發ちます。』
遂に同じ汽車で歸つて、再會を約して好摩が原で別れた。
『それだけだ。』と智惠子は言つて見た。何が(それだけ)なのか解らぬ。(それだけ)が何れだけなのか解らぬ。
解つてるのは、その吉野が今昌作と二人加藤の家にゐる事だけだ。或はもう、加藤の家を出たかも知れぬ。出て而して、何處へ? 何處へ?
『ククヽヽクウ。』といふ聲は遙《ずつ》と後ろに聞えた。智惠子は何時しか雜木の木立を歩み盡きて、幾百本の杉の暗く茂つた、急な坂の上に立つてゐた。
きつと其下の方を見て居たが、何を思つてか、智惠子は忙しく其急な坂を下り始めた。
四
ダラ/\と急な杉木立の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下り盡すと、其處は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奧に小さな柾葺《まさぶき》の屋根が見える。大窪の泉と云つて、杉の根から湧く清水を大きい据桶に湛へて、雨水を防ぐ爲に屋根を葺いた。町の半數の家々ではこの水で飯を炊《かし》ぐ。
蓊欝《こんもり》と木が蔽《かぶ》さつてるのと、桶の口を溢れる水銀の雫の樣な水が、其處らの青苔や圓い石を濡らしてるのとで、如何な日盛りでも冷い風が立つて居る。智惠子は不圖渇を覺えた。まだ午飯《ひるめし》に餘程間があると見えて、誰一人水汲が來てゐない。
重い柄杓に水を溢れさせて、口移しに飮まうとすると、サラリと髮が落つる。髮を被いた顏が水に映つた。先刻から斷間《しきり》なしに熱《ほて》つてるのに、四邊の青葉の故か、顏が例《いつも》より青く見える。
智惠子は二口許り飮んだ。齒がキリ/\
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