する位で、心地よい冷さが腹の底までも沁み渡つた。と、顏の熱るのが一層感じられる。『怎うして青く見えたか知ら!』と考え乍ら、裏畑の細徑傳《ほそみちづた》ひ急ぎ足に家へ歸つた。
『誰方《どなた》も被來《いらつしや》らなくつて?』
『否《いえ》。』とお利代は何氣ない顏をしてゐる。『あら、何處へ行つてらしつたんですか? お髮《ぐし》に木の葉が附いて。』
『然う?』と手を遣つて見て、『學校の後ろの山を歩いて見ましたの。』
『お一人で!』
『否、子供達と。』と、うつかり言つたが、智惠子は妙に氣が引けた。
『先生、俺も行きたいなア。』と梅ちやんが甘える。
『俺も、俺も。』と新坊は氣早に立ち上つて雀躍《こをどり》する。
『ホホヽヽ。もう行つて來たの。この次にね。』と言ひ乍ら、智惠子は己が室に入つた。
「來なかつた!」と思ふと、ホッと安心した樣な氣持だ。と又、今にも來るかといふ新しい心配が起る。戸外を通る人の跫音が、忙しく心を亂す。戸口の溝の橋板が鳴る度、押へきれぬ程動悸がする。
「奈何《どう》したといふのだらう?」と自分の心が疑はれる。莫迦な! と叱つても矢張り氣が氣でない。強ひて書《ほん》を讀んで見ても、何が書いてあつたか全然心に留らない。新坊が泣き出しでもすると譯もなく腹立しくなる。幾度も幾度も室の中を片附けてゐるうちに、午食《ひる》になつた。
『小母《をば》さん、私の顏紅くなつて?』と箸を動かしながら訊いた。
『否《いえ》。些とも。』
『然う? ぢや平生《ふだん》より青いんでせう。』
『否《いゝえ》、何ともありませんよ。怎うかなすつたんですか?』
『怎うもしないんですけど、何だかホカ/\するわ。目の底に熱がある樣で……。』
『暑いところを山へなんか被行《いらし》つたからでせうよ。今日はこれから又甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に蒸しますか!』
 何がなしに氣が急いて、智惠子はさつさ[#「さつさ」に傍点]と箸を捨てた。何をするでもなく、氣がそは/\して、妙な暗さが心に湧いて來る。「怎うもしないのに!」自分に辯疏して見る傍から、「屹度加藤さんで午餐《ひる》が出て、それから被來《いらつしや》る。」といふ考が浮ぶ。髮を結《ゆ》はう、結《ゆ》はうと何囘と無く思ひ附いたが、箪笥の上の鏡に顏を寫しただけ。到頭三時近くなつた。
「世の中が詰らない!」と言つた樣な失望が、漠然と胸に湧く。自省の念も起る。氣を紛らさうと思つて二人の子供を呼んだ。智惠子の拵へてくれた浴衣をだらし[#「だらし」に傍点]なく着た梅ちやんと、裸體に腹掛をあてた新坊が喜んで來た。
『何か話をして上げませう? 新坊さんは桃太郎が好き?』
『嫌《いや》。』と頭を振つて、『山さ行く。』
『先生、山さ連れてつて。』と梅ちやんも甘えかゝる。
『ホホヽヽ、何方も山へ行きたいの? 山はこの次にね……。』
と言つてる所へ、入口に人の訪るゝ氣勢《けはい》。智惠子は屹と口を結んだ。俄かに動悸が強く打つ。

      五

 胸を轟かして待つた其人では無くて訪ねて來たのは信吾であつた。智惠子は何がなしにバツが惡く思つた。
 信吾は常に變らぬ容子乍らも、何處か落着ぬ樣で、室に入ると不圖氣がさした樣に見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して坐つたが、今まで客のあつたとも見えぬ。
『吉野君が來なかつたですか?』
『否《いゝえ》。』と對手の顏色を見る。
『來ない? 然うですか、何處へ行つたかなア。はてナ、』と、信吾は是非逢はねばならぬ用でもある樣に考へる。
『あの、お一人でお出懸けになつたんで御座いますか?』
『昌作と二人です、今朝出たつ限《きり》まだ歸らないんですが、多分|貴女《あんた》ン許《とこ》かと思つて伺つたんです。』
 何故此家に居ると思つたか、此家に來ると其人が言つて出たのか、又、若し眞に用があるのなら、午前中確かに居た筈の加藤へ行つて聞けば可い。言ひ方は樣々あつたが、智惠子は膝に目を落して、唯『否。』と許り。
 危《あぶ》ない藝當を行《や》つてるといふ樣な氣がして、心が咎める。
『はてナ。』と、信吾はまた大袈裟に考へ込む態《さま》を見せて、『實は何です、家に親類の者が來てゐて僕は今朝出られなかつたんですが、一寸今、用が出來たもんですから探しに來たんです。』
『何方《どちら》か外にお尋ねになつたんで御座いますか?』
『否《いゝえ》、』と信吾は少し困つて、『……眞直に此方へ。』
『此家《こゝ》へ被來《いらつしや》るとでも被仰《おつしや》つて、お出懸けになられたんで御座いますか?』
『然うぢやないんですが、唯、多分然うかと思つたんで。』
『奈何《どう》してで御座いますか?』
『ハッハハ。』と、男は突然大きく笑つた。『違ひましたね。それぢや何處へ行つたかなア!』
 智惠子は默つて了つた。
『盛岡でお逢ひになつたんですつてね、吉野に?』
『え。渡邊さんといふお友達の家に參りましたが、その方の兄さんとお親しい方だとかで……あの、些とお目に懸つたんで御座います。』
「巧く言つてやがらア、畜生奴!」と心の中。『甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]男です、貴女の見る所では?』
 智惠子は不快を感じて來た。『奈何ツて、別に……。』
『僕はあゝした男が大好《だいすき》ですよ。僕の知つてる美術家連中も少くないが、吉野みたいな氣持の好い、有望な男は居ませんよ……。』と、信吾は誇張した言方をして、女の顏色を見る。
『然うで御座いますか。』と言つた限《きり》、智惠子は眞面目な顏をしてゐる。
 話は遂にはずまなかつた。智惠子には若しや恁うしてる所へ其人が來はせぬかといふ心配がある。そして、其人に關する事を言ひ出されるのが、何がなしに侮辱されてる樣な氣がする。信吾は信吾で、妙に皮肉な考へ許り頭に浮んだ。
 それでも、四十分許り向ひ合つてゐて不圖氣が附いた樣にして信吾はその家を辭した。
『畜生奴!』恁う先づ心に叫んだ。
 元が用があつて探しに來たのでも無いのだから、その儘家路を急いだ。母は二三日前からまた枕に就いた。父は留守。其處へ饒舌《おしやべり》の叔母が子供達と共に泊りに來たのが、今朝も信吾は其叔母に捉まつて出懸けかねた。吉野は昌作を伴れて出懸けた。午後になつて父が歸ると、信吾は何となく吉野と智惠子の事が氣に掛つた。それは一つは退屈だつた爲めでもある。
 も一つには、その二人が自分の紹介も待たずして知己になつたのが、譯もなく不愉快なのだ。隱して置いた物を他人に勝手に見られた樣な感じが、信吾の心を焦立《いらだた》せてゐる。
『今日は奈何して、あゝ冷淡だつたらう?』と、智惠子の事を考へ乍ら、信吾は強く杖を揮つて、路傍の草を自暴《やけ》に薙ぎ倒した。

   其九

      一

 叔母一行が來て家中が賑つてる所へ夕方から村の有志が三四人、門前寺の梁《やな》に落ちたといふ川鱒を持つて來て酒が始つたので、病床のお柳までが鉢卷をして起きるといふ混雜、客自慢の小川家では、吉野までも其席に呼出した。燈火の點く頃には、少し酒亂の癖のある主人の信之が、向鉢卷をしてカッポレを踊り出した。
 朝から昌作の案内で町に出た吉野の歸つた時は、先に歸つた信吾が素知らぬ顏をして、客の誰彼と東京談をしてゐた。無理強ひの盃四つ五つ、それが悉皆《すつかり》體中に循《まは》つて了つて、聞苦しい土辯の川狩の話も興を覺えた。眞紅《まつか》な顏をした吉野は、主人のカッポレを機《しほ》に密乎《こつそり》と離室に逃げ歸つた。
 其縁側には、叔母の子供等や妹達を對手に、靜子が何やら低く唱歌を歌つてゐた。
『あゝ、悉皆《すつかり》醉つちやつた。』恁う言つて吉野は縁に立つ。
『御迷惑で御座いましたわね。お苦しいんですか其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に?』
 燈火《あかり》に背《そむ》いた其笑顏が、何がなしに艶に見えた。涼しい夜風が遠慮なく髮を嬲《なぶ》る。庭には植込の繁みの中に螢が光つた。子供達は其方にゆく。
『飮みつけないもんですからね。然し氣持よく醉ひましたよ。』と言ひ乍ら、吉野は庭下駄を穿いた。其實、顏がぽつぽつ[#「ぽつぽつ」に傍点]と熱《ほて》るだけで、格別醉つた樣な心地でもない。
『夜風に當ると可《よ》う御座いますわ。』
『え、些《ち》と歩いて見ませう。』と、酒臭い息を涼しい空に吹く。月の無い頃で、其處此處に星がちらついた。
『靜や、靜や。』と母屋の方からお柳の聲がした。
 吉野はブラリ/\と庭を拔けて、圃路《はたけみち》に出た。追駈ける樣な家の中の騷ぎの間々に、靜かな麥畑の彼方から水の音がする。暗を縫うて見え隱れに螢が流れる。
 夜涼《よびえ》が頬を舐めて、吉野は何がなしに一人居る嬉しさを感じた。恁《か》うした田舍の夜路を、何の思ふことあるでもなく、微醉《ほろゑひ》の足の亂れるでもなく、しつとりとした空氣を胸深く吸つて、ブラリ/\と辿る心地は、渠が長く/\忘れてゐた事であつた。北上川の水音は漸々近くなつた。足は何時しか、町へ行く路を進んでゐた。
 轟然たる物の響の中、頭を壓する幾層の大厦に挾まれた東京の大路を、苛々《いら/\》した心地で人なだれに交つて歩いた事、兩國近い河岸の割烹店《レストーラン》の窓から、目の下を飛ぶ電車、人車、駈足をしてる樣な急しい人々、さては、濁つた大川を上り下りの川蒸汽、川の向岸に立列んだ、強い色彩の種々の建物などを眺めて、取り留めもない、切迫塞《せつぱつま》つた苦痛に襲れてゐた事などが、怎《ど》うやらずつと昔の事、否、他人の事の樣に思はれる。
 吉野は、今日町に行つて加藤で御馳走になつた事までも、既う五六日も十日も前の事の樣に思はれた。自分が餘程|以前《まへ》から此村にゐる樣な氣持で、先刻逢つて酒を強ひられた許りの村の有志――その中には清子の父なる老村長もゐた――の顏も、可也古くからの親しみがある樣に覺えた。
 いつしか高畠の杜を過ぎて、鶴飼橋の支柱が夜目にそれと見える樣になつた。急に高まつた川瀬の音が、靜かな、そして平かな心の底に、妙にしんみりした響きを傳へる。
 と、その川瀬の音に交つて、子供らの騷ぐ聲が聞え出した。
 橋の袂まで來た。不圖子供らの聲に縺れて、低い歌が耳に入る。
『……かーみはーあーいーなり。』
 仄白い人の姿が、朧氣に橋の上に立つてゐる。

      二

 橋の上の仄白い人影、それは智惠子であつた。
 信吾の歸つた後の智惠子は、妙に落膽《がつかり》して氣が沈んだ。今日一日の己が心が我ながら怪まれる。
『奈何《どう》したといふのだらう? 私はあの人を、思つてる……戀してるのか知ら!』
『否!』と強く自ら答へて見た。自分は假にも其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事を考へる樣な境遇ぢやない、兩親はなく、一人ある兄も手頼りにならず、又成らうともせぬ。謂はゞこの世に孤獨の自分は、傍目もふらずに自活の途を急がねばならぬ。それだのに、何故|這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》……?
 懊《じ》れに懊《じ》れて待つた其人の、遂に來なかつた失望が、冷かに智惠子の心を嘲つた。二度と這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事は考へまい! と思ふ傍から、『矢張り女は全く放たれる事が出來ない。男は結局孤獨だ、死ぬまで。』と久子の兄に言つた其人の言葉などが思出された。書《ほん》を讀む氣もしない。學校へ行つてオルガンでも彈かうと考へても見た。うつかりすると取り留めのない空想が湧く……。
 日が暮れると、近所の女小供が螢狩に誘ひに來た。案外氣輕に智惠子はそれに應じて宿の二人の子供をも伴れて出た。出る時、加藤の玄關が目に浮んだ。其處には數々の履物に交つて赤革の夏靴が一足脱いであつた。小川のお客樣も來てゐると清子の言つ
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