を喜んだ。二人の戰ひは隨分目覺ましかつた。
信吾に限らず、男といふ男は、皆富江の敏捷《すばしこ》い攻撃を蒙つた。富江は一人で噪《はしや》ぎ切つて、遠慮もなく對手の札を拔く、其拔方が少し汚なくて、五囘六囘と續くうちに、指に紙片で繃帶する者も出來た。そして富江は、一心になつて目前の札を守つてゐる山内に、隙さへあれば遠くからでも襲撃を加へることを怠らなかつた。其度、山内は上氣した小さい顏を擧げて、眼を三角にして怨むが如く富江の顏を見る。『オホヽヽ。』と、富江は面白氣に笑ふ。靜子と智惠子は幾度か目を見合せた。
一度、信吾は智惠子の札を拔いたが、汚なかつたと言つて遂に札を送らなかつた。次いで智惠子が信吾のを拔いた。
『イヤ、參りました。』と言つて、信吾は強ひて、一枚貰つた。
其合戰の終りに、信吾と智惠子の前に一枚宛殘つた。昌作は立つて來て覗いてゐたが、氣合を計つて、
『千早ふる――』と叫んだ。それは智惠子の札で、信吾の敗となつた。
『マア此人は!』と、富江はしたゝか昌作の背を平手で擲《どや》しつけた。昌作は赤くなつた顏を勃《むつ》とした樣に口を尖らした。
可哀想なは愼次で、四五枚の札も守り切れず、イザとなると可笑しい身振をして狼狽《まごつ》く。それを面白がつたのは嫂の清子と靜子であるが、其|狼狽方《まごつきかた》が故意《わざ》とらしくも見えた。滑稽でもあり氣の毒でもあつたのは校長の進藤で、勝敗がつく毎に鯰髭を捻つては、『年を老ると駄目です喃。』と啣《こぼ》してゐた。一度昌作に代つて讀手になつたが、間違つたり吃つたりするので、二十枚と讀まぬうちに富江の抗議で罷《や》めて了つた。
我を忘れる混戰の中でも、流石に心々の色は見える。靜子の目には、兄と清子の間に遠慮が明瞭《あり/\》と見えた。清子は始終|敬虔《つゝまし》くしてゐたが、一度信吾と並んで坐つた時、いかにも極り惡氣であつた。その清子の目からは亦信吾の智惠子に對する擧動が、全くの無意味には見えなかつた。そして富江の阿婆摺《あばず》れた調子、殊にも信吾に對する忸々《なれ/\》しい態度は、日頃富江を心に輕んじてゐる智惠子をして多少の不快を感ぜしめぬ譯にいかなつた。
九時過ぎて濟んだ、茶が出、菓子が出る。殘りなく白粉の塗られた顏を、一同は互ひに笑つた。消さずに歸る事と誰やらが言出したが、智惠子清子靜子の三人は何時の間にか洗つて來た。富江が不平を言ひ出して、三人に更めて附けようと騷いだが、それは信吾が宥《なだ》めた。そして富江は遂に消さなかつた。森川は上衣の釦《ボタン》をかけて、乾いた手巾《ハンケチ》で顏を拭いた。宛然《さながら》厚化粧した樣になつて、黒い齒の間に一枚の入齒が、殊更らしく光つた。妖怪の樣だと言つて一同がまた笑つた。
軈てドヤ/\と歸路についた。信吾兄妹も鶴飼橋まで送ると言つて一同と一緒に戸外に出た。雲一つなき天に片割月が傾いて、靜かにシットリとした夜氣が、相應に疲れてゐる各々の頭腦に、水の如く流れ込んだ。
七
淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光が柔かに濕《うるは》うてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂を蕩かして、天地は限りなき靜寂の夢を罩《こ》めた。見知らぬ郷の音信の樣に、北上川の水瀬の音が、そのしつとりとした空氣を顫はせる。
男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭腦は、今までの華やかな明るい室の中の樣と、この夜の村の靜寂の間の關係を、一寸心に見出しかねる……と、眼の前に歌留多の札がちらつく。歌の句が片々に混雜《こんがらが》つて、唆《そゝ》るやうに耳の底に甦《よみがへ》る。『あの時――』と何やら思出される。それが餘りに近い記憶なので却つて全體《みな》まで思出されずに消えて了ふ。四邊は靜かだ。濕《しめ》つた土に擦《す》れる下駄の、音が取留めもなく縺《もつ》れて、疲れた頭が直ぐ朦々《もう/\》となる。霎時《しばし》は皆無言で足を運んだ。
田の中を逶《うね》つた路が細い。十人は長い不規則な列を作つた。最先に沼田が行く。次は富江、次は愼次、次は校長……森川山内と續いて、山内と智惠子の間は少し途斷《とぎ》れた。智惠子のすぐ後ろを、丈高い信吾が歩いた。
智惠子は甘い悲哀を感じた。若い心はウットリとして、何か恁《か》う、自分の知らなんだ境を見て歸る樣な氣持である。詰らなく騷いだ! とも思へる。樂しかつた! とも思へる。そして、心の底の何處かでは、富江の阿婆摺《あばず》れた噪《はしや》ぎ方が、不愉快でならなかつた。そして、何といふ譯もなしに直ぐ後ろから跟《つ》いて來る信吾の跫音が心にとまつてゐた。
其姿は、何處か、夢を見てゐる人の樣に悄然とした[#「とした」はママ]、髮も亂れた。
先づ平生の心に歸つたのは富江であつた。『ね、沼田さん。あの時そら貴方の前に「むべ山」があつたでせう? あれが私の十八番《おはこ》ですの。屹度拔いて上げませうと思つて待つてると、信吾さんに札が無くなつて、貴方が「むべ山」と「流れもあへぬ」を信吾さんへ遣つたでせう? 私厭になつちまひましたよ。ホホヽヽ。』と、先刻《さつき》の事を喋《しやべ》り出した。『ハハヽヽ。』と四五人一度に笑ふ。
『森川さんの憎いつたらありやしない。那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に亂暴しなくたつて可いのに、到頭「聲きく時」を裂《さ》いちまつた……。』
と、富江は氣に乘つて語り繼《つ》ぐ。
信吾は、間隔を隔《へだた》つてゐる爲か、何も言はなかつた。笑ひもしなかつた。其心は眼前の智惠子を追うてゐた。そして、其後の清子の心は信吾を追うてゐた。其又後ろの靜子の心は清子を追うてゐた。そして、四人共に何も言はずに足を運んだ。
路が下田路に合つて稍廣くなつた。前の方の四五人は、甲高い富江の笑聲を圍んで一團になつた。町歸りの醉漢《よひどれ》が、何やら呟《つぶや》き乍ら蹣跚《よろ/\》とした歩調《あしどり》で行き過ぎた。
と、信吾は智惠子と相並んだ。
『奈何《どう》です、此靜かな夜の感想は?』
『眞箇《ほんと》に靜かで御座いますねえ。』と、少し間《ま》をおいて智惠子は答へる。
『貴女は何でせう、歌留多なんか餘りお好きぢやないでせう?』
『でもないんで御座いますけれど……然し今夜は、眞箇《ほんと》に樂しう御座いました。』と遠慮勝に男を仰いだ。
『ハハヽヽ。』と笑つて信吾は杖の尖でコツ/\石を叩《たゝ》き乍ら歩いたが、
『何ですね。貴女は基督教信者《クリスチャン》で?』
『ハ。』と低い聲で答へる。
『何か其方の本を貸して下さいませんか? 今迄つい宗教の事は、調べて見る機會も時間もなかつたんですが、此夏は少し遣つて見ようかと思ふんです。幸ひ貴女の御意見も聞かれるし……。』
『御覽になる樣な本なんぞ……あの、私こそ此夏は、靜子さんにでもお願ひして頂いて、何か拜借して勉強したいと思ひまして……。』
『否《いや》、別に面白い本も持つて來ないんですが、御覽になるなら何時でも……。すると何ですか、此夏は何處にも被行《いらつしや》らないんですか?』
『え。まあ其積りで……。』
路は小さい杜に入つて、月光を遮つた青葉が風もなく、四邊《あたり》を香《にほ》はした。
八
仄暗《ほのくら》い杜を出ると、北上川の水音が俄かに近くなつた。
『貴女《あなた》は小説はお嫌ひですか?』と、信吾は少し唐突に問うた。其の時はもう肩も摩れ/\に並んでゐた。
『一概には申されませんけれど、嫌ひぢや御座いません。』と落着いた答へをして閃《ちら》と男の横顏を仰いだが、智惠子の心には妙に落着がなかつた。前方の人達からは何時しか七八間も遲れた。後ろからは清子と靜子が來る。其跫音も何うやら少し遠ざかつた。そして自分が信吾と並んで話し乍ら歩く……何となき不安が胸に萠《きざ》してゐた。
立留つて後の二人を待たうかと、一歩毎に思ふのだが、何故かそれも出來なかつた。
『あれはお讀みですか、風葉の「戀ざめ」は?』と信吾はまた問うた。
『あの發賣禁止になつたとか言ふ……?』
『然《さ》うです。あれを禁止したのは無理ですよ。尤もあれだけじや無い、眞面目な作で同じ運命に逢つたのが隨分ありますからねえ。折角拵へた御馳走を片端から犬に喰はれる樣なもんで……ハハヽヽ。「戀ざめ」なんか別に惡い所が無いぢやないですか?』
『私はまだ讀みません。』
『然うでしたか。』と言つて、信吾は未だ何か言はうと唇を動かしかけたが、それを罷《や》めてニヤ/\と薄笑を浮べた。月を負うて歩いてるので、無論それは女に見えなかつた。
信吾は心に、何ういふ連想からか、かの「戀ざめ」に描かれてある事實――否あれを書く時の作者の心持、否、あれを讀んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。
五六歩|歩《ある》くと、智惠子の柔かな手に、男の手の甲が、木の葉が落ちて觸る程輕く觸つた。寒いとも温《あつた》かいともつかぬ、電光の樣な感じが智惠子の腦を掠めて、體が自ら剛くなつた。二三歩すると又觸つた。今度は少し強かつた。
智惠子は其手を口の邊へ持つて來て輕く故意とらしからぬ咳をした。そして、礑《はた》と足を留めて後ろを振返つた。清子と靜子は肩を並べて、二人とも俯向いて、十間も彼方から來る。
信吾は五六歩歩いて、思切り惡さうに立留つた。そして矢張り振返つた。目は、淡く月光を浴びた智惠子の横顏を見てゐる。コツ/\と、杖《ステッキ》の尖《さき》で下駄の鼻を叩いた。其顏には、自ら嘲る樣な、或は又、對手を蔑視《みくび》つた樣な笑が浮んでゐた。
清子と靜子は、霎時《しばし》は二人が立留つてゐるのも氣附かぬ如くであつた。清子は初めから物思はし氣に俯向いて、そして、物も言はず、出來るだけ足を遲くしようとする。
『濟まなかつたわね、清子さん、恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に遲くしちやつて。』と、も少し前に靜子が言つた。
『否。』と一言答へて清子は寂しく笑つた。
『だつて、お宅ぢや心配してらつしやるわ、屹度。尤も愼次さんも被來《いらし》たんだから可いけど……。』
『靜子さん!』と、稍あつてから力を籠めて言つて、昵と靜子の手を握つた。
『恁《か》うして居たいわ、私。……』
『え?』
『恁うして! 何處までも、何處までも恁うして歩いて……。』
靜子は譯もなく胸が迫つて、握られた手を強く握り返した。二人は然し互ひに顏を見合さなかつた。何處までも恁うして歩く! 此美しい夢の樣な言葉は華かな歌留多の後の、疲れて※[#「目+夢の夕に代えて目」、38−上−5]乎《ぼうつ》として、淡い月光と柔かな靄に包まれて、底もなき甘い夜の靜寂の中に蕩《とろ》けさうになつた靜子の心をして、譯もなき咄嗟の同情を起さしめた。
『此|女《ひと》は兄に未練を有つてる!』といふ考へが、瞬《またゝ》く後に靜子の感情を制した。厭はしき怖れが、胸に湧いた。然しそれも清子に對する同情を全くは消さなかつた。女は悲しいものだ! と言ふ樣な悲哀が、靜子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。
『怎うです。少し早く歩いては?』と信吾が呼んだ。二人は驚いて顏を擧げた。
九
其夜、人々に別れて智惠子が宿に着いた時はもう十時を過ぎてゐた。
ガタピシする入口の戸を開けると、其處から見通しの臺所の爐邊に、薄暗く火屋《ほや》の曇つた、紙笠の破れた三分心の吊洋燈の下で、物思はし氣に悄然と坐つて裁縫《しごと》をしてゐたお利代は、『あ、お歸りで御座いますか。』と忙しく出迎へる。
『遲くなりまして、新坊さんももうお寢《やす》み?』
『は、皆寢みました。先生もお泊りかと思つたんですけれど……。』と言ひ乍ら先に立つて智惠子の室に入つて、手早く机の上の洋燈を點《とも》す。臥床が延べてあつた。
お泊りかと思つたといふ言葉が、何故か智惠子の耳に不愉快に響いた。今迄お利代の坐つてゐた所には、長い手紙が擴げたなりに逶※[#「二点しんにょう
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