さん!』と、出した其手で矢庭に疊に突いたお利代の手を握つて、『神よ!』と心に叫んだ。『願はくば御惠を垂れ給へ!』と瞑ぢた其眼の長い睫毛を傳つて、美しい露が溢れた。
三
『あゝ。』といふ力無い欠伸が次の間から聞えて、『お利代、お利代。』と、嗄れた聲で呼び、老女が目を覺まして、寢返りでも爲たいのであらう。
智惠子はハッとした樣に手を引いた。お利代は涙に濡れた顏を擧げて、『は、只今。』と答へたが、其顏に言ふ許りなき感謝の意を湛へて、『一寸』と智惠子に會釋して立つ。急がしく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。
其後姿を見送つた目を其處に置いて行つた手紙の上に[#「上に」は底本では「上を」]移して、智惠子は眤と呼吸を凝した。神から授つた義務を果した樣な滿足の情が胸に溢れた。そして、『私に出來るだけは是非して上げねばならぬ!』と自分に命ずる樣に心に誓つた。
『あゝゝ、よく寢た。もう夜が明けたのかい、お利代?』と老女《としより》の聲が聞える。
『ホホヽヽ、今午後の三時頃ですよ祖母さん。お氣分は?』
『些《ちつ》とも平生《ふだん》と變らないよ。ナニか、先生はもうお出掛けか?』
『否、今日は土曜日ですから先刻にお歸りになりましたよ。そしてね祖母さん、あの、梅と新坊に單衣を買つて來て下すつて、今縫つて下すつてるの。』
『呀《おや》、然うかい。それぢやお前、何か御返禮に上げなくちや不可《いけ》ないよ。』
『まあ祖母さんは! 何時でも昔の樣な氣で……。』
『ホヽヽ。然《さ》うだつたかい。だがねお利代、お前よく氣を附けてね、先生を大事にして上げなけれや不可《いけ》ないよ。今度の先生の樣に良い人はお前、何處へ行つたつて有るものぢやないよ。』と子供にでも訓《をし》へる樣に言ふ。
智惠子はそれを聞くと、又しても眼の底に涙の鍾《あつま》るを覺えた。
『ア痛、ア痛、寢返りの時に限つてお前は邪慳《ぢやけん》だよ。』と、今度はお利代を叱つてゐる。智惠子は氣が附いた樣に、また針を動かし出した。
五分許り經つてお利代が再び入つて來た時は、何を泣いてか其頬に新しい涙の痕が光つてゐた。
『お氣分が宜い樣ね?』
『は。もう夜が明けたかなんて恍《とぼ》けて……。』と少し笑つて、『皆先生のお蔭で御座います。』
『まあ小母《をば》さんは!』と同情深い眼を上げて、『小母《をば》さんは何だわね、私を家の人の樣にはして下さらないのね?』
『ですけれど先生、今もあのお祖母さんが、先生の樣な人は何處に行つても無いと申しまして……。』
と、流石は世慣れた齡《とし》だけに厚く禮を述べる。
『辛いわ、私!』と智惠子は言つた。
『何も私なんかに然《さ》う被仰《おつしや》る事はなくてよ、小母さんの樣に立派な心掛を有つてる人は、神樣が助けて下さるわ。』
『眞箇《ほんと》に先生、生きた神樣つたら先生の樣な人かと思ひまして。』
『まあ!』と心から驚いた樣な聲を出して、智惠子は涼しい眼を瞠《みは》つた。『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事《そんなこと》被仰《おつしやる》るもんぢやないわ。』
『は。』と言つてお利代は俯いた。今の言葉を若しやお世辭とでも取られたかと思つたのだらう。手は無意識に先刻の手紙に行く。
『あら小母さん、お手紙御覽なさいよ。何處から?』
『は。』と目を上げて、『凾館からですの。……あの梅の父から。』と心持極り惡氣に言ふ。
『ま、然う?』と輕く言つたが、惡い事を訊いたと心で悔《くや》んだ。
『あの、先月……十日許り前にも來たのを、返事を遣らなかつたもんですから……』
と言つてる時、門口に人の氣勢。
『日向さんは?』
『靜子さんですよ。』と※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《さゝや》いたお利代は急いで立つ。
『小母さん、これ。』と智惠子は先刻の紙幣を指さしたのでお利代は『それでは!』と受取つて室を出た。
四
挨拶が濟むと、靜子は直ぐ、智惠子が片附けかけた裁縫物に目をつけて、『まあ好い柄ね。』
『でも無いわ。』
『貴女《あなた》ンの?』
『まさか! 這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》小さいの着られやしないわ。』と、笑ひ乍ら縫掛けのそれを抓《つま》んで見せる。
『梅ちやんの?』と少し聲を潜めた。
『え、新坊さんと二人の。』
『然う?』と言つて、靜子は思ひあり氣な眼附をした。無論、智惠子が買つてくれたものと心に察したので。
智惠子は身の周圍《まはり》を取片附けると、改めて嬉しげな顏をして、『よく被來《いらし》つたわね!』
『貴女は些《ちつ》とも被來《いらし》つて下さらないのね?』
『濟まなかつたわ。』と何氣なく言つたが、一寸目の遣場《やりば》困つた。そして、微笑《ほゝえ》んでる樣な靜子の目と見合せると色には出なかつたが、ポッと顏の赧《あから》むを覺えた。靜子清子の外には友も無い身の(富江とは同僚乍ら餘り親しくなかつた。)小川家にも一週に一度は必ず訊ねる習慣であつたのに、信吾が歸つてからは、何といふ事なしに訪ねようとしなかつた。
『今日はお忙しくつて?』
『否《いゝえ》。土曜日ですもの、緩《ゆつく》りしてらつしつても可いわね?[#「可いわね?」は底本では「可いわね」]』
『可けないの。今日は私、お使ひよ。』
『でもまあ可いわ。』
『あら、貴女のお迎ひに來たのよ。今夜あの、宅で歌留多會を行《や》りますから母が何卒《どうぞ》ッて。……被來《いらつしや》るわね?』
『歌留多、私取れなくつてよ。』
『まあ、貴女御謙遜ね?』
『眞箇《ほんと》よ。隨分久しく取らないんですもの。』
『可いわ。私だつて下手《へた》ですもの。ね、被來《いらつしや》るわね?』
と靜子は姉にでも甘える樣な調子。
『然うね?』と智惠子は、心では行く事に決めてゐ乍ら、餘り氣の乘らぬ樣な口を利いて、
『誰々? 集るのは?』
『十人|許《ばか》しよ。』
『隨分大勢ね?』
『だつて、宅許りでも選手《チャンピオン》が三人ゐるんですもの。』
『オヤ、その一人は?』と智惠子は調戲《からか》ふ樣に目で笑ふ。
『此處に。』と頤で我が胸を指して、『下手組の大將よ。』と無邪氣に笑つた。
智惠子は、信吾が歸つてからの靜子の、常になく生々と噪《はしや》いでゐることを感じた。そして、それが何かしら物足らぬ樣な情緒を起させた。自分にも兄がある。然し、その兄と自分との間に、何の情愛がある?
智惠子は我知らず氣が進んだ。『何時《なんじ》から? 靜子さん。』
『今直ぐ、何にも無いんですけど晩餐《ごはん》を差上げてから始めるんですつて。私これから、清子さんと神山さんをお誘ひして行かなけやならないの。一緒に行つて下すつて? 濟まないけど。』
『は。貴女となら何處までゞも。』と笑つた。
軈て智惠子は、『それでは一寸。』と會釋して、『失禮ですわねえ。』と言ひ乍ら、室の隅で着換へに懸つたが、何を思つてか、取出した衣服は其儘に、着てゐた紺絣の平常着《ふだんぎ》へ、袴だけ穿いた。
其後姿を見上げてゐた靜子は、思出す事でもあるらしく笑を含んでゐたが少し小聲で、
『あの、山内樣ね。』
『え。』と此方へ向く。
『アノウ……』と、智惠子の眞面目な顏を見ては惡いことを言出したと思つたらしく、心持極り惡氣に頬を染めたが、『詰らない事よ。……でも神山さんが言つてるの。あの、少し何してるんですつて、神山さんに。』
『何してるつて、何を?』
『あら!』と靜子は耳まで紅くした。
『まさか!』
『でも富江さん自身で被仰《おつしや》つたんですわ。』と、自分の事でも辯解する樣に言ふ。
『まあ彼の方は!』と智惠子は少し驚いた樣に目を瞠《みは》つた。それは富江の事を言つたのだが、靜子の方では、山内の事の樣に聞いた。
程なくして二人は此家を出た。
五
二人が醫院の玄關に入ると、藥局の椅子に靠《もた》れて、處方簿か何かを調べてゐた加藤は、やをら其帳簿を伏せて快活に迎へた。
『や、婦人隊の方は少々遲れましたね、昌作さんの一隊は二十分許り前に行きましたよ。』
『然《さ》うで御座いますか。あの愼次さんも被來《いらし》つて?』
『は。弟は歌留多を取つた事がないてんで弱つてましたが、到頭引つ張られて行きました。まお上がんなさい。こら、清子、清子。』
そして、清子の行く事も快く許された。
『貴君も如何で御座いますか?』と智惠子が言つた。
『ハッハヽヽ、私は駄目ですよ、生れてから未だ歌留多に勝つた事がないんで……だが何です、負傷者でもある樣でしたら救護員として出張しませう。』
清子が着換の間に、靜子は富江の宿を訪ねたが、一人で先に行つたといふ事であつた。
三人の女傘《かさ》が後になり先になり、穗の揃つた麥畑の中を睦《むつま》し氣に川崎に向つた。丁度鶴飼橋の袂に來た時、其處で落合ふ別の道から山内と出會した。山内は顏を眞赤《まつか》にして會釋して、不即不離《つかずはなれず》の間隔をとつて、いかにも窮屈らしい足取で、十間許り前方をチョコ/\と歩いた。
程近い線路を、好摩《かうま》四時半發の上り列車が凄じい音を立てゝ過ぎた頃、一行は小川家に着いた。噪いだ富江の笑聲が屋外までも洩れた。岩手山は薄紫に※[#「目+夢の夕に代えて目」、32−上−9]《ぼ》けて、其肩近く靜なる夏の日が傾いてゐた。
富江の外に、校長の進藤、準訓導の森川、加藤の弟の愼次、農學校を卒業したといふ馬顏の沼田、それに巡囘に來た松山といふ巡査まで上り込んで、大分話が賑つてゐた。其處へ山内も交つた。
女組は一まづ別室に休息した。富江一人は彼室《あちら》へ行き此室《こちら》へ行き、宛然《さながら》我家の樣に振舞つた。お柳は朝から口喧しく臺所を指揮《さしづ》してゐた。
晩餐の際には、嚴めしい口髭を生やした主人の信之も出た。主人と巡査と校長の間に持上つた鮎釣《あゆかけ》の自慢話、それから、此近所の山にも猿が居る居ないの議論――それが濟まぬうちに晩餐は終つて巡査は間もなく歸つた。
軈て信吾の書齋にしてゐる離室《はなれ》に、歌留多の札が撒《ま》かれた。明るい五分心の吊洋燈《つるしランプ》二つの下に、入交りに男女の頭が兩方から突合つて、其下を白い手や黒い手が飛ぶ。行儀よく並んだ札が見る間に減つて、開放した室が刻々に蒸熱《むしあつ》くなつた。智惠子の前に一枚、富江の前に一枚……頬と頬が觸れる許りに頭が集る。『春の夜の――』と山内が妙に氣取つた節で讀上げると、
『萬歳ツ。』と富江が金切聲で叫んだ。智惠子の札が手際よく拔かれて、第一戰は富江方の勝に歸した。智惠子、信吾、沼田、愼次、清子の顏には白粉が塗られた。信吾の片髭が白くなつたのを指さして、富江は聲の限り笑つた。一同もそれに和した。沼田は片肌を脱ぎ、森川は立襟の洋服の釦を脱して風を入れ乍ら、乾き掛つた白粉で皮膚が痙攣《ひきつ》る樣なのを氣にして、顏を妙にモグ/\さしたので、一同は又笑つた。
『今度は復讐しませう。』と信吾が言つた。
『ホホヽヽ。』と智惠子は唯笑つた。
『新しく組を分けるんですよ。』と、富江は誰に言ふでもなく言つて、急《いそが》しく札を切る。
六
二度目の合戰が始つて間もなくであつた。靜子の前の「たゞ有明」の札に、對合《むかひあ》つた昌作の手と靜子の手と、殆んど同時に落ちた。此方が先だ、否、此方が早いと、他の者まで面白づくで騷ぐ。
『敗《ま》けてお遣りよ。昌作さんが可哀想だから。』と見物してゐたお柳が喙《くちばし》を容れた。不快な顏をして昌作は手を引いた。靜子は氣の毒になつて、無言で昌作の札を一枚自分の方へ取つた。昌作はそれを邪慳に奪ひ返した。其合戰が濟むと、昌作は無理に望んで讀手になつた。そして到頭終ひまで讀手で通した。
何と言つても信吾が一番上手であつた。上の句の頭字を五十音順に列べた其配列法が、最初少からず富江の怨みを買つた。しかし富江も仲々信吾に劣らなかつた。そして組を分ける毎に、信吾と敵になるの
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