橋を渡つて十町許りで大字川崎の小川家に行く。落ちかけた夏の日が、熟して割れた柘榴《ざくろ》色の光線を、青々とした麥畑の上に流して、眞正面に二人の顏を彩《いろど》つた。
信吾は何氣ない顏をして歩き乍らも心では清子の事を考へてゐた。僅か二十分許りの間、座には靜子も居れば、加藤の母も愼次も交る/\挨拶に出た。信吾は極く物慣れた大人振つた口をきいた。清子は茶を薦め菓子を薦めつゝ唯|淑《しとや》かに、口數は少なかつた。そして男の顏を眞正面には得見なかつた。
唯一度、信吾は對手を「奧樣《おくさん》」と呼んで見た。清子は其時|俯《うつむ》いて茶を注《つ》いでゐたが、返事はしなかつた。また顏も上げなかつた。信吾は女の心を讀んだ。
清子の事を考へると言つても、別に過ぎ去つた戀を思出してゐるのではない。また豫期してゐた樣な不快を感じて來たのでもない。寧ろ、一種の滿足の情が信吾の心を輕くしてゐる。一口に言へば、信吾は自分が何處までも勝利者であると感じたので。清子の擧動がそれを證明した。そして信吾は、加藤に對して少しの不快な感を抱いてゐない、却つてそれに親しまう、親しんで而して繁く往來しよう、と考へた。
加藤に親しみ、清子を見る機會を多くする、――否、清子に自分を見せる機會を多くする。此方が、清子を思つては居ないが、清子には何時までも此方を忘れさせたくない。それ許りでなく、猫が鼠を嬲《なぶ》る如く敗者の感情を弄ばうとする、荒んだ戀の驕慢《プライド》は、も一度清子をして自分の前に泣かせて見たい樣な希望さへも心の底に孕んだ。
『清子さんは些とも變らないでせう。』と何かの序に靜子が言つた。靜子は、今日の兄の應待振の如何にも大人びてゐたのに感じてゐた。そして、兄との戀を自ら捨てた女友《とも》が、今となつて何故《なぜ》|那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》未練氣のある擧動をするだらう。否、清子は自ら恥ぢてゐるのだ、其爲に臆すのだ、と許り考へてゐた。
『些とも變らないね。』と信吾は短い髭を捻つた。『幸福に暮してると年は老らないよ。』
『さうね。』
其話はそれ限《きり》になつた。
『今日隨分長く學校に被居《いらし》たわね。貴兄《あなた》智惠子さんに逢つたでせう?』
『智惠子? ウン日向さんか。逢つた。』
『何う思つて、兄樣は?』と笑を含む。
『美人だね。』と信吾も笑つた。
『顏許りぢやないわ。』と靜子は眞面目な眼をして、『それや好い方よ心も。私姉樣の樣に思つてるわ。』と言つて、熱心に智惠子の性格の美しく清い事、其一例として、濱野(智惠子の宿)の家族の生活が殆んど彼女の補助によつて續けられてゐる事などを話した。
信吾は其話を、腹では眞面目に、表面はニヤ/\笑ひ乍ら聽いてゐた。
二人が鶴飼橋へ差掛つた時、朱盆の樣な夏の日が岩手山の巓《みね》に落ちて、夕映の空が底もなく黄橙色《だい/\いろ》に霞んだ。と、丈高い、頭髮をモヂャ/\さした、眼鏡をかけた一人の青年が、反對の方から橋の上に現れた。靜子は、
『アラ昌作叔父さんだわ。』と兄に※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]く。
『オーイ。』と青年は遠くから呼んだ。
『迎ひに來た。家ぢや待つてるぞ。』
言ふ間もなく踵を返して、今來た路を自暴《やけ》[#ルビの「やけ」は底本では「や」]に大胯で歸つて行く。信吾は其後姿を見送り乍ら、愍れむ樣な輕蔑した樣な笑ひを浮べた。靜子は心持眉を顰めて、『阿母さんも酷《ひど》いわね。迎ひなら昌作さんでなくたつて可いのに!』と獨語《ひとりごと》の樣に呟《つぶや》いた。
其三
一
曉方《あけがた》からの雨は午《ひる》少し過ぎに霽《あが》つた。庭は飛石だけ先づ乾いて、子供等の散らかした草花が生々としてゐる。池には鯉が跳ねる。池の彼方が芝生の築山、築山の眞上に姿優しい姫神山が浮んで空には斷れ/″\の白雲が流れた。――それが開放《あけはな》した東向の縁側から見える。地上に發散する水蒸氣が風なき空氣に籠つて、少し蒸す樣な午後の三時頃。
『それで何で御座いますか、えゝ、お食事の方は? 矢張お進みになりませんですか?』と言ひ乍ら、加藤は少し腰を浮かして、靜子が薦める金盥の水で眞似許り手を洗ふ。今しもお柳の診察――と言つても毎日の事でホンの型許り――が濟んだところだ。
『ハア、怎うも。……それでゐて恁う、始終何か喰べて見たい樣な氣がしまして、一日口|按排《あんばい》が惡う御座いましてね。』とお柳も披《はだか》つた襟を合せ、片寄せた煙草盆などを醫師の前に直したりする。
痩せた、透徹るほど蒼白い、鼻筋の見事に通つた、險のある眼の心持吊つた――左褄とつた昔を忍ばせる細面の小造りだけに遙《ずうつ》と若く見えるが、四十を越した證《しるし》は額の小皺に爭はれない。
『胃の所爲《せゐ》ですな。』と頷いて、加藤は新しい手巾《ハンカチ》で手を拭き乍ら坐り直した。
『で何です、明日からタカヂヤスターゼの錠劑を差上げて置きますから、食後に五六粒宛召上つて御覽なさい。え? 然《さ》うです。今までの水藥と散劑の外にです。碎くと不味《まづ》う御座いますから、微温湯《ぬるまゆ》か何かで其儘お嚥みになる樣に。』と頤を突出して、喉佛を見せて嚥み下す時の樣子をする。
見るからが人の好さ相な、丸顏に髭の赤い、デップリと肥つた、色澤《つや》の好い男で、襟の塞つた背廣の、腿《もゝ》の邊が張り裂けさうだ。
茶を運んで來た靜子が出てゆくと、奧の襖が開いて、卷莨の袋を掴んだ信吾が入つて來た。
『や、これは。』と加藤は先づ挨拶する、信吾も坐つた。
『ようこそ。暑いところを毎日御足勞で……。』
『怎う致しまして。昨日は態々お立寄り下すつた相ですが、生憎と芋田の急病人へ行つてゐたものですから失禮致しました。今度町へ被來《いらし》たら是非|何卒《どうか》。』
『ハ、有難う。これから時々お邪魔したいと思つてます。』と莨に火を點《つけ》る。
『何卒さう願ひたいんで。これで何ですからな、無論私などもお話相手には參りませんが、何しろ狹い村なんで。』
『で御座いますからね。』とお柳が引取つた。『これが(頤で信吾を指して)退屈をしまして、去年なんぞは貴方、まだ二十日も休暇が殘つてるのに無理無體に東京に歸つた樣な譯で御座いましてね。今年はまた私が這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》にブラ/\してゐて思ふ樣に世話もやけず、何彼と不自由をさせますもんですから、もう昨日あたりからポツ/\小言が始りましてね。ホヽヽ。』
『然《さ》うですか。』と加藤は快活に笑つた。
『それぢや今年は信吾さんに逃げられない樣に、成るべく早くお癒りにならなけや不可《いけ》ませんね。』
『えゝもうお蔭樣で、腰が大概良いもんですから、今日も恁うして朝から起きてゐますので。』
『何ですか、リウマチの方はもう癒つたんで?』と信吾は自分の話を避けた。
『左樣、根治とはまあ行き難い病氣ですが、……何卒。』と信吾の莨を一本取り乍ら、『撒里矢爾酸曹達《さるちるさんそうだ》が阿母《おつか》さんのお體に合ひました樣で……。』とお柳の病氣の話をする。
開放した次の間では、靜子が茶棚から葉鐵《ぶりき》の鑵を取出して、麥煎餅か何か盆に盛つてゐたが、それを持つて彼方へ行かうとする。
『靜や、何處へ?』とお柳が此方から小聲に呼止めた。
『昌作《をぢ》さん許《とこ》へ。』と振返つた靜子は、立ち乍ら母の顏を見る。
『誰が來てるんだい?』と言ふ調子は低いながらに譴《たしな》める樣に鋭かつた。
二
『山内樣よ。』と、靜子は温《おと》なしく答へて心持顏を曇らせる。
『然うかい。三尺さんかい!』とお柳は蔑《さげす》む色を見せたが、流石に客の前を憚つて、『ホホホヽ。』と笑つた。[#「。」は底本では「、」]
『昌作さんの背高《のつぽ》に山内さんの三尺ぢや釣合はないやね。』
『昌作さんにお客?』と信吾は母の顏を見る。其間に靜子は彼方の室へ行つた。
『然《さ》うだとさ。山内さんて、登記所のお雇さんでね、月給が六圓だとさ。何で御座いますね。』と加藤の顏を見て、『然う言つちや何ですけれど、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》小さい人も滅多にありませんねえ、家ぢや子供らが、誰が教へたでもないのに三尺さんといふ綽名《あだな》をつけましてね。幾何《いくら》叱つても山内さんを見れや然う言ふもんですから困つて了ひますよ。ホホヽヽ。七月兒だつてのは眞箇《ほんと》で御座いませうかね?』
『ハッハヽヽ。怎うですか知りませんが、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に生れついちやお氣の毒なもんですね。顏だつても綺麗だし、話して見ても色ンな事を知つてますが……。』
『えゝえゝ。』とお柳は俄かに眞面目臭つた顏をして、
『それやもう山内さんなんぞは、體こそ那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》でも、兎に角一人で喰つて行くだけの事をしてらつしやるんだから立派なもので御座いますが、昌作叔父さんと來たらまあ怎うでせう! 町の人達も嘸小川の剩《あまさ》れ者だつて笑つてるだらうと思ひましてね。』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》ことは御座いません……。』
と加藤が何やら言はうとするのを、お柳は打消す樣にして、
『學校は勝手に廢《や》めて來るし、あゝして毎日|碌々《ごろ/\》してゐて何をする積りなんですか。私は這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》性質ですから諄々《つべこべ》言つて見ることも御座いますが、人の前ぢや眼許りパチパチさしてゐて、カラもう現時《いま》の青年《わかいもの》の樣ぢやありませんので。お宅にでも伺つた時は何とか忠告して遣つて下さいましよ。』
『ハハヽヽ。否、昌作さんにした所で何か屹度大きい御志望を有つて居られるんでせうて。それに何ですな、譬へ何を成さるにしても、あの御體格なら大丈夫で御座いますよ。……昌作さんも何ですが(と信吾を見て)失禮乍ら貴君も好い御體格ですな。五寸……六寸位はお有りでせうな? 何方がお高う御座います?』
氣の無い樣な顏をして煙りを吹いてゐた信吾は、『さあ、何方ですか。』と、吐月峯《はいふき》に莨の吸殼を突込む。
『何方ももう背許り延びてカラ役に立ちませんので、……電信柱にでも賣らなけや一文にもなるまいと申してゐますんで。ホホヽヽヽ。』と、お柳は取つて附けた樣に高笑ひする。加藤も爲方なしに笑つた。
十分許り經つて加藤は自轉車で歸つて行つた。信吾は玄關から直ぐ書齋の離室《はなれ》へ引返さうとすると
『信吾や、まあ可いぢやないか。』と言つて、お柳は先刻の座敷に戻る。
『お父樣は今日も役場ですか?』と、信吾は縁側に立つて空を眺めた。
『然《さ》うだとさ、何の用か知らないが……町へ出さへすれや何日でも昨晩の樣に醉つぱらつて來るんだよ。』と、我子の後姿を仰ぎ乍ら眉を顰める。
『爲方がない、交際だもの。』と投げる樣に言つて、敷居際に腰を下した。
『時にね。』とお柳は顏を和《やはら》げて、『昨晩の話だね。お父樣のお歸りで其儘になつたつけが、お前よく靜に言つてお呉れよ。』
『何です、松原の話?』
『然うさ。』と眼をマヂ/\する。
信吾は霎時《しばらく》庭を眺めてゐたが、『まあ可いさ。休暇中に決めて了つたら可いでせう?』と言つて立上る。
『だけどもね……。』
『任《まか》して置きなさい。俺も少し考へて見るから。』と叱り附ける樣に言つて、まだ何か言ひたげな母の顏を上から見下した。そして我が室へは歸らずに、何を思つてか昌作の室の方へ行つた。
三
穢苦《むさくる》しい六疊室の、西向の障子がパッと明るく日を
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