。』と言ひながら、富江は何やら袂から出して掌に忍ばせて昌作に渡す。
 昌作は極り惡るさうにそれを受けた。そして、『可し、可し。』と言ひながら庭下駄を穿いて、『オイ、志郎! 好い物があるぞ。』と聲高に母屋の方へ行く。
『あら可けませんよ。人に見せちや。』と富江は其後ろから叫んで、そして、面白さうにホホホヽと笑つた。
 二人は好奇心に囚はれた。『何です、何です?』と信吾が言ふ。
『何でもありませんよ。』と、濟し返つて、吉野の顏をちらと見た。
『怪しいねえ、吉野君。』
『ハツヽヽ。』
『豈夫《まさか》! 信吾さんたら眞箇《ほんと》に人が惡い。』と何故か富江は少し愼《つゝま》しくしてゐる。
 其處へ、色のいゝ甜瓜《まくはうり》を盛つた大きい皿を持つて、靜子が入つて來た。『餘り甘味《おいし》しくないんですけど……。』
『何だ? 甜瓜《まくはうり》か! 赤痢になるぞ。』と信吾が言つた。
『マ兄樣は!』と言つて、『眞箇《ほんと》でせうか神山|樣《さん》、赤痢が出たつてのは?』
『眞箇《ほんと》には眞箇《ほんと》でせうよ。隔離所は三人とか收容したつてますから。ですけれど大丈夫ですわねえ、餘程離れた處ですもの。』
『ハヽヽヽ。神山さんが大丈夫ツてのなら安心だ。早速やらうか。』と信吾が最先に一片摘む。
 軈て、裾短かの筒袖を着た志郎と昌作が入つて來た。
『やあ志郎さん、今まで晝寢ですか?』と吉野が手巾に手を拭き乍ら言つた。
『否《いゝえ》、僕は晝寢なんかしない。高畑へ行つて號令演習をやつて來て、今水を浴《かぶ》つたところです。』
『驚いた喃。君は實に元氣だ!』
 昌作は何か亢奮してる態で、肩を聳かして胡座《あぐら》をかいた。
『何だい彼物《あれ》は、昌作さん?』と信吾が訊く。
『莫迦だ喃!』と昌作は呟く樣に言つて、眤と眼鏡の中から富江を見る。『然し俺は山内に同情する。』
 富江は笑ひながら、『あら可けませんよ、此處で喋《しやべ》つては。』
『僕も見た。』と志郎は口を入れた。『オイ昌作さん、皆に報告しようか?』
『言へ、言へ。何だい?』と信吾は弟を唆かす。昌作は默つて腕組をする。
『言はう。』と志郎は快活に言つて、『あれは肺病で將に死せんとする山内謙三の艶書です。終り。』
『まア、志郎さんは酷い!』と、流石に富江も狼狽する。
『艶書?』と、皆は一度に驚いた。
『それが怎うしたの、志郎さん!』と靜子が訊く。
 呆れてゐる信吾の顏を富江は烈しい目で凝視《みつ》めてゐた。

   其十一

      一

 前日に富江が來て、急に夕方から歌留多會を開くことになり、下男の松藏が靜子の書いた招待状を持つて町に馳せたが、來たのは準訓導の森川だけ。智惠子は病氣と言つて不參。到頭肺病になつて了つた山内には、無論使者を遣らなかつた。
 智惠子の來なかつたのは、來なければ可いと願つた吉野を初め、信吾、靜子、さては或る計畫を抱いてゐた富江の各々に、歌留多に氣を逸《はず》ませなかつた。其夜は詰らなく過ぎた。
 靜子の生涯に忘るべからざる盆の十四日の日は、晴々と明けた。風なく、雲なく、麗かな靜かな日で、一年中の愉樂《たのしみ》を盆の三日に盡す村人の喜悦は此上もなかつた。
 村に禪寺が二つ、一つは町裏の寶徳寺、一つは下田の喜雲寺、何れも朝から村中の善男善女を其門に集めた。靜子も、母お柳の代理で、養祖母のお政や子供等と共に、午前のうちに參詣に出た。
 その歸路である。靜子は妹二人を伴れて、寶徳寺路の入口の智惠子の宿を訪ねた。智惠子は、何か氣の退《ひ》ける樣子で迎へる。
『怎《ど》うなすつたの、智惠子さん? 風邪《かぜ》でもお引きなすつて?』
『否、今日は何とも無いんですけれど、昨晩丁度お腹が少し變だつた所でしたから……折角お使を下すつたのに、濟みませんでしたわねえ。』
『心配しましたわ、私。』と、靜子は眞面目に言つた。『貴女が被來《いらつしや》らないもんだから、詰らなかつたの歌留多は。』
『あら其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事は有りませんわ。大勢|被行《いらし》つたでせう、神山さんも?』
『けれどもねえ智惠子さん、怎《ど》うしたんだか些とも氣が逸《はず》まなかつてよ。騷いだのは富江さん許り……可厭《いやあ》ねあの人は!』
『……那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》人だと思つてれヤ可いわ。』
 靜子は、その富江が山内の艶書を昌作に呉れた事を話さうかと思つたが、何故か二人の間が打解けてゐない樣な氣がして、止めて了つた。三十分許り經つて暇乞をした。
 二人は相談した樣に、吉野のことは露程も口に出さなかつた。
 靜子が家へ歸ると、信吾は待ち構へてゐたといふ風に自分の室へ呼んで、そして、何か怒つてる樣な打切棒《ぶつきらぼう》な語調で智惠子の事を訊いた。
 靜子は有の儘に答へた。
『然《さ》うか!』と言つた信吾の態度は、宛然《さながら》、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事は聞いても聞かなくても可いと言つた樣であつたが、靜子は征矢《そや》の如く兄の心を感じた。そして、何といふ事なしに、『兄樣に宜しくと言つてよ、智惠子樣が!』と言つて見た。智惠子は何とも言つたのではないが。
『然《さ》うか!』と、信吾は又|卒氣《そつけ》なく答へた。晝飯が濟むと、フラリと一人出て、町へ行つた。
 信吾が出かけて間もなくである。月の初めに子供らを伴れて來た、盛岡の叔母が、見知らぬ一人の老人を伴れて來た。叔母は墓參の爲めと披露した。連の男は松原家から頼まれて來たのだとは直ぐ知れた。言ふまでもなく靜子の縁談の事で。
 父の信之、祖父の勘解由、母お柳、その三人と松原家の使者とは奧の間で話してゐる。叔母も其席に出た。靜子は今更の樣に胸が騷ぐ。兄の居ないのが恨めしい。若しや此話から、自分と死んだ浩一との事が吉野に知れはしまいかと思ふと、その吉野にも顏を見せたくなかつた。
 室に籠つたり、臺所へ行つたり、庭に出たり、兎角して日も暮れかゝつた。信吾はそれでも歸つて來ない。夕方から一緒に盆踊を見に行く筈だつたのだが。
 晩餐の時、媒介者《なかうど》が今夜泊るのだと叔母から話された。信吾は全く暗くなつても歸らぬ。母お柳の勸めで、兄とは町へ行つて逢ふことにして、靜子は吉野と共に妹達や下女を伴れて踊見物に出ることになつた。

      二

 丁度鶴飼橋へ差掛つた時、圓い十四日の月がゆら/\と姫神山の上に昇つた。空は雲一片なく穩かに晴れ渡つて、紫深く黝んだ岩手山が、くつきり夕照の名殘の中に浮んでゐる。
 仄りと暗い中空には、弱々しい星影が七つ八つ、青ざめて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第/\に高く上る。町からはもう太鼓の響が聞え出した。
 たとへ何を言つたとて妹共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ靜子の心は、言ふ許りなく動悸《ときめ》いてゐた。家には媒介者《なかうど》が來てゐる。松原との縁談は靜子の絶對に好まぬ所だ。その話の成行《なりゆき》が恁《か》うして歩いてゐ乍らも心に懸らぬではない。否、それが心に懸ればこそ、靜子は種々の思ひを胸に疊んだ。
「若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! 否、若し此人が現在自分の夫であつたら!」
 月明かに靜かな四邊の景色と、遠い太鼓の響とは、靜子の此心持に適合《ふさは》しかつた。靜子は妹共の罪なき言葉に吉野と聲を合して笑ひ乍ら、何がなき心強さと嬉しさを禁ずることが出來なかつた。よし何事が次いで起らなかつたにしても、靜子は此夜の心持を忘れる事は出來ぬであらう。
 松原からの縁談は、その初め、當の對手の政治に對する嫌惡の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な考へやら或る侮辱の感やらで、靜子は兄に手頼つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの靜子は、今迄の理由の外に、も一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出來た。
 丁度橋の上に來た時である。
『此處で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』
 恁《か》う靜子は慣々しく言つてみた。月は其夢みる樣な顏を照した。
『然うでしたねえ!』と吉野は答へた。そして、何か思出した樣に少し俯向《うつむ》いて默つた。
 その態度は、屹度あの時の事を詳しく思ひ出してるのだと靜子に思はせた。靜子も強ひて其時の事を思ひ出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思ひ出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき滿足を與へた。
 が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。渠は、信吾が屹度智惠子の家にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに歸らなかつた申譯をするだらうと想像してゐた。
 町に入ると、常ならぬ華やかな光景が、土地慣れぬ吉野の目に珍しく映つた。家々の軒には、怪し氣な畫や「豐年萬作」などの字を書いた古風の行燈や提灯が掲げてある。街路の兩側には、門々に今を盛りと樺火が焚いてある。其赤い火影が、一筋町の賑ひを樂しく照して、晴着を飾つた往來《ゆきゝ》の人の顏が何れも/\醉つてる樣に見える。
 町は樂し氣な密話《さゞめき》に充ちた。寄太皷の音は人々の心を誘ふ。其處此處に新しい下駄を穿いた小兒らが集つて、樺火で煎餅などを燒《や》いてゐる。火が爆《は》ぜて火花が街路に散る。年長な小兒らは勢ひ込んで其列んだ火の上を跳ねてゆく。丁度夕餉の濟んだところ。赤い着物を着て女兒共は打ち連れて太皷の音を的にさゞめいて行く。
 町も端れの智惠子の宿の前には、消えかゝつた樺火を取卷いて四五人の小兒等がゐた。
『梅ちやん! 梅ちやん!』と妹共が先ず驅け寄る。其後から靜子は、『梅ちやん、先生は?』と優しく言ひながら近づいた。
 靜子は直ぐ氣が附いた。梅ちやんの着てゐる紺絣の單衣は、それは嘗て智惠子の平常着であつた!
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あな我が君のなつかしさよ、
     まみゆる日ぞまたるる。
君は谷の百合、峰のさくら、
     うつし世にたぐひもなし。
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 家の下からは幽かに讃美歌の聲が洩れる。信吾は居ない! 恁《か》う吉野は思つた。
『先生! 先生!』と梅ちやんは門口から呼ぶ。

      三

 智惠子に訊《き》くと、信吾は一時間許り前に歸つたといふ。
『まア何處へ行つたんでせうねえ。夕方までに歸つて、私達と一緒に又出かける筈でしたのよ。これから何處へ行くとも言はなかつたんでせうか?』
『否《いえ》、何んとも、別に。』と言つて、智惠子は意味ありげに、目で吉野を仰いで、そして俯向《うつむ》いた。
『歩いてゐたら逢ふでせうよ。』と吉野は鷹揚に言つた。
『怎《ど》うです。日向さんも被行《いらつしや》いませんか、盆踊を見に?』
『は、……まアお茶でも召し上つて……』
『直ぐ被行《いらつしや》いな、智惠子さん。何か御用でも有つて?』
と靜子も促す。
『否《いゝえ》。』
『行きませう! 僕は盆踊は生れて初めてなんです。』
と、吉野はもう戸外へ出る。
 で、智惠子は一寸奧へ行つて、帶を締直して來て、一緒に往來に出た。
 樺火は少し頽《すた》れた。踊がもう始まつたのであらう。太皷の音は急に高くなつて、調子に合つてゐる。唄の聲も聞える。人影は次第々々にその方へながれて行く。
 提灯を十も吊した加藤醫院の前には大束の薪がまだ盛んに燃えてゐて、屋内は晝の如く明るく、玄關は開け放されてゐる。大形の染の浴衣に水色縮緬をグル/\卷いた加藤を初め、清子、藥局生、下女、皆玄關に出て往來を眺めてゐた。
『やア、皆樣お揃ひですナ。』と、加藤から先づ聲をかける。
『お涼みですか。』と吉野が言つて、一行はゾロ/\と玄關に寄つた。
『Guten《グーテン》[#「Guten」は底本では「Cuten」] Abend《アベンド》, Herr《ヘル》 Yosino《ヨシノ》! ハハヽヽヽ。』と、近頃通信教授で習つてるといふ獨逸語を使つ
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