て、加藤は肥つた體を搖ぶる、晩酌の後で殊更機嫌が可いと見える。
『さ、まァお上りなさい、屹度|被來《いらつしや》ると思つたからチャンと御馳走が出來てます。』
『それは恐れ入つた。ハハヽヽ。』
 傍では、靜子が兄の事を訊いてゐる。
『先刻一寸|被行《いらつしや》つてよ。晩にまた來ると被仰つて直ぐお歸りになりましたわ。』と清子が言つた。
『うん、然《さ》う/\。』と加藤が言つた。
『吉野さん、愈々盆が濟んだら來て頂きませう。先刻《さつき》信吾さんにお話したら夫れは可い、是非書いて貰へと被仰《おつしや》つてでしたよ。是非願ひませう。』
『小川君にお話しなすつたですか! 僕は何日《いつ》でも可いんですがね。』
『眞箇《ほんと》に、小川さんに被居《いらつしや》るよりは御不自由で被居《いらつしや》いませうが、お書き下さるうちだけ是非|何卒《どうぞ》……』と清子も口を添へる。そして靜子の方を向いて、
『あの、何ですの、宅《うち》があの阿母樣の肖像を是非吉野さんに書いて頂きたいと申すんで、それで、お書き下さる間、宅に被行つて頂《いただ》きたいんですの。』
『大丈夫、靜子さん。』と加藤が口を出す。
『お客樣を横取りする譯ぢやないんです。一週間許り吉野さんを拜借したいんで……直ぐお返ししますよ。』
『ホヽヽ、左樣で御座いますか!』と愛相よく言つたものゝ、靜子の心は無論それを喜ばなかつた。
 吉野は無理矢理に加藤に引張り込まれた。女連《をんなづれ》は霎時《しばらく》其處に腰を掛けてゐたが、軈て清子も一緒になつて出た。
 町の丁度中程の大きい造酒家の前には、往來に盛んに篝火を焚いて、其周圍、街道なりに楕圓形な輪を作つて、踊が始まつてゐる。輪の内外には澤山の見物。太皷は四挺、踊子は男女、子供らも交つて、まだ始まりだから五六十人位である。太皷に伴れて、手振り足振り面白く歌つて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る踊には、今の世ならぬ古色がある。揃ひの浴衣に花笠を被《かぶ》つた娘等もある。編笠に顏を隱して、醉つた身振りの可笑しく、唄も歌はず踊り行く男もある。月は既に高く昇つて、樂し氣に此群を照した。女連は、睦し氣に語りつ笑ひつし乍ら踊を見てゐた。
 と、輕く智惠子の肩を叩いた者があつた。靜子清子が少し離れて誰やら年増の女と挨拶してる時。

      四

 振向くと、何時醫院から出て來たか吉野が立つてゐる。
『あら!』と智惠子は恁《か》う小聲に言つて、若い血が顏に上つた。何がなしに體の加減が良くないので、立つてゐても力が無い。幾挺の太皷の強い響きが、腹の底までも響く。――今しもその太皷打が目の前を過ぎる。
 吉野は無邪氣に笑つた。
 二人は並んで立つた、立並ぶ見物の後ろだから人の目も引かぬ。
(私ーとー)と、好い聲で一人の女が音頭を取る。それに續いた十人許りの娘共は、直ぐ聲を合せて歌ひ次いだ。――
(――お前ーはーア御門ーのーとびーらーア、朝ーにーイわかーれーてエ、ー晩に逢ふ――)
 同じ樣な花笠に新しい浴衣、淡紅色メリンスの襷を端長く背に結んだ其娘共の中に、一人、背の低い肥つたのがあつて、高音中音《ソプランアルト》の冴えた唄に際立つ次中音《テノル》の調子を交へた。それが態と道化た手振りをして踊る。見物は皆笑ふ。
 ドヽドンと、先頭の太皷が合《あひ》を入れた。續いた太皷が皆それを遣る。調子を代へる合圖だ。踊の輪は淀んで唄が止む、下駄の音がゾロ/\と縺れる。
(ドヾドコドン、ドコドン――)と新しく太皷が鳴り出す。――ヨサレ節といふのがこれで。――淀んだ輪がまたそれに合せて踊り始める。何處やらで調子はづれた高い男の聲が、最先に唄つた――
(ヨサレー茶屋のかーア、花染ーの――たす――き――イ――)
『面白いですねえ。』と、吉野は智惠子を振返つた。『宛然《まるで》古代《むかし》に歸つた樣な氣持ぢやありませんか!』
『えゝ。』智惠子は踊にも唄にも心を留めなかつた樣に、何か深い考へに落ちた態《さま》で惱まし氣に立つてゐた。
 と見た吉野は、『貴女《あなた》何處かまだ惡いんぢやないんですか? お體《からだ》の加減が。』
『否《いゝえ》、たゞ少し……』
 俄かに見物が笑ひどよめく。今しも破蚊帳を法衣《ころも》の樣に纏つて、顏を眞黒に染めた一人の背の高い男が、經文の眞似をしながら巫山戯《ふざけ》て踊り過ぎるところで。
『吉野さん!』智惠子は思ひ切つた樣に恁《か》う囁いた。
『何です?』
『あの……』と、眤《ぢつ》と俯向《うつむ》いた儘で、『私今日、あの、困つた事を致しました!』
『……何です、困つた事ツて?』
 智惠子は不圖顏を上げて、何か辛さうに男を仰いだ。
『あの、私小川さんを憤《おこ》らして歸してよ。』
『小川を※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 怎《ど》うしたんです?』
『そして、瞭然《きつぱり》言つて了ひましたの。……貴方には甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に御迷惑だらうと思つて、後で私……』
『解りました、智惠子さん!』恁う言つて、吉野は強く女の手を握つた。『然《さ》うでしたか!』と、がつしりした肩を落す。
 智惠子はグンと胸が迫つた。と同時に、腹の中が空虚になつた樣でフラ/\とする。で男の手を放して人々の後に蹲《しやが》んだ。
 目の前には眞黒な幾本の足、彼方の篝火がその間から見える。――智惠子は深い谷底に一人落ちた樣な氣がして涙が溢れた。
『あら、先刻《さつき》から被來《いらし》つて?』と後ろに靜子の聲がした。
 吉野の足は一二尺動いた。
『今來た許りです。』
『然《さ》うですか! 兄は怎《ど》うしたんでせう、今方々探したんですけれど。』
『學校ですよ、屹度。』と清子が傍から言ふ。
『オヤ、日向さんは?』と、靜子は周圍を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]す。
 智惠子は立ち上つた。
『此處にゐらしつたわ!』
『立つてると何だかフラ/\して、私|蹲《しやが》んでゐましたの、先刻《さつき》から。』
『然《さ》う! まだお惡いんぢやなくつて。』と靜子は思ひ遣り深い調子で言つた。そして(惡いところをお誘ひしたわねえ)(家へ歸つてお寢みなすつては?)と、同時に胸に浮んだ二つの言葉は、何を憚つてか言はずに了つた。
『何處かお惡くつて?』と、清子は醫師の妻。
『否《いゝえ》、少し……も少し見たら私歸りますわ。』

      五

 さうしてる間にも、清子は嫁の身の二三度家へ行つて見て來た。その度、吉野に來て一杯飮めと加藤の言傳《ことづ》てを傳へた。
 信吾は來ない。
 月は高く昇つた。其處此處の部落から集つて來て、太皷は十二三挺に増えた。笛も三人許り加つた。踊の輪は長く/\街路なりに楕圓形になつて、その人數は二百人近くもあらう。男女、事々しく裝つたのもあれば、平常服《ふだんぎ》に白手拭の頬冠《ほゝかむり》をしたのもある。十歳位の子供から、醉の紛れの腰の曲つたお婆さんに至るまで、夜の更け手足の疲れるも知らで踊る。人垣を作つた見物は何時しか少くなつた。――何れも皆踊の輪に加つたので――二箇所の篝火は赤々と燃えに燃える。
 月は高く昇つた。
 強い太皷の響き、調子揃つた足擦れの音、華やかな、古風な、老も若きも戀の歌を歌つてゐる此境地から、不圖目を上げて其靜かな月を仰いだ心持は、何人も生涯に幾度となく思浮べて、飽かずも其甘い悲哀に醉はうとするところであらう。――殊にも此夜の智惠子は思ふ人と共にゐる樂みと、體内《みうち》の病苦と、唆る樣な素朴な烈しい戀の歌と、そして、何がなき頼りなさに心が亂れて、その沈んで行く氣持を強い太皷の響に掻き亂される樣に感じながら、踊りには左程の興もなく、心持眉を顰めては眤と月を仰いでゐた。
 怒りと嘲りを浮べた信吾の顏が、時々胸に浮んだ。智惠子は、今日その信吾の厚かましくも言ひ出でた戀を、小氣味よく拒絶して了つたのだ。
 立つたり蹲《しやが》んだりしてる間に、何がなしに腹が脹つて來て、一二度輕く嘔吐を催すやうな氣分にもなつた。早く歸つて寢よう、と幾度か思つた。が、この歡樂の境地に――否、靜子と共に吉野を一人置いて行くことが、矢張り快くなかつた。居たとて別に話――智惠子は今日の出來事を詳しく話したかつた――をする機會もないが、矢張り一寸でも長く男と一緒にゐたかつた。
 軈て、下腹の底が少しづゝ痺《しび》れる樣に痛み出した。それが段々烈しくなつて來る。
 隙を見て、智惠子は思ひ切つてつと男の傍へ寄つた。
『私、お先に歸ります。』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に惡くなりましたか?』
『少し……少しですけれどもお腹がまた痛んでくる樣ですから。』
『可けませんねえ! 怎《ど》うです加藤さんに被行《いらし》つたら?』
『否、ホンの少しですから……あの、明日でも彼來《いらし》つて下さいませんか? 何卒《どうぞ》。』
『行きます、是非。』と言つて、吉野は強く女の手を握つた。女も握り返した。
『好い月ですわねえ!』
 智惠子は猶去り難げに恁《か》う言つた。そして、皆にも挨拶して一人宿の方へ歸つてゆく。月を浴びた其後姿を、吉野は少し群から離れた所に蹲《しやが》んで、遠く見送つてゐた。
 智惠子は痛む腹に力を入れて、堅く齒を喰縛りながら、幾回か後ろを振返つた。町の賑ひは踊の場所に集つて、十間離れたらもう人一人ゐない。霜の置いたかと許り明るい月光に、所々樺火の跡が黒く殘つて、軒々の提灯や行燈は半ば消えた。
 天心の月は、智惠子の影を短く地に印した。太皷の音と何十人の唄聲とは、その月までも屆くかと、風なき空に漂うてゆく。――華やかな舞樂の場から唯一人歸る智惠子は、急に己が宿が厭になつた。
 と言つて、足は矢張り宿の方へ動く。送つて來てくれぬ男を怨めしくも思つた。あの人が東京へ歸ると、屹度今夜のことを手紙に書いて寄越すだらうと思つた。そして、二人の間に取交された約束が、唯一生忘るまいといふ事だけなのを思つて、智惠子は今夜といふ今夜、初めて切實に、それだけでは物足らぬことを感じた。智惠子も女である。力強き男の腕に抱かれたら、あはれ、腹の痛みも忘れようものを!
 二町許り來る、と智惠子は俄かに足を早めた。不圖、怺《こら》へきれぬ程に便氣を催して來たので。

      六 

 程なく吉野や靜子等も歸路に就いた。信吾には遂に逢はなかつた。吉野は智惠子の病氣の氣に懸らぬではないが、寄つて見る譯にも行かぬ。
 それから小一時間も經つた。
 富江の宿の裏口が開いて、月影明るい中へヒョクリと信吾が出た。續いて富江も出た。
『好い月!』恁《か》う富江が言つた。信吾は自ら嘲る樣な笑ひを浮べて、些《ち》と空を仰いだが別に興を催した風もない。ハヽヽと輕く笑つた。
 太皷の響と唄の聲が聞える、四邊《あたり》は森として、何處やらで馬の強く立髮を振る音。
『一寸、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に濟まさなくたつて可いわよ。』
『疲れた!』と、信吾は低く呟く樣に言つた。
『マ酷《ひど》い! 散々人を虐《いぢ》めて置いて。』
『ハヽヽ。ぢや左樣なら!』
『一寸々々、眞箇《ほんと》よ明日の晩も。』
『ハヽヽ。』と男は又妙に笑つてスタ/\と歩き出す。富江は家へ入つた。
 人なき裏路を自棄《やけ》に急ぎながら、信吾は淺猿しき自嘲の念を制することが出來なかつた。少し下向いた其顏は不愉快に堪へぬと言つた樣に曇つた。
『莫迦!』と聲を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。
 信吾の心が生れてから今日一日ほど動搖した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智惠子を訪うと、初めは盛んに氣焔を吐いた。現代の學者を糞味噌に罵倒し盡し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》話の機會からか、智惠
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