と、吉野は手早く新坊の濡れた着衣を脱がせて、砂の上に仰向に臥《ね》せた。そして、それに跨る樣にして、徐々《そろ/\》と人工呼吸を遣り出す。
 可憐な小さい體を、提灯の火が薄く照らした。
 智惠子は、シッカリと吉野の脱ぎ捨てた下駄を持つた手を、胸の上に組んで、口の中で何か祈祷をしながら、熱心に男のする態を見て居た。
 大きい螢が一疋、スイと子供の顏を掠めて飛んだ。
『畜生!』恁《か》う言つて農夫がそれを拂つた。
『ワア――』と、眠りから覺めた樣な鈍い泣聲が新坊の口から洩れた。
『新坊さん!』と、智惠子は驚喜の聲を揚げて、矢庭に砂の上の子供に抱着いた。
『生きた! 生きた!』と女兒等も急に騷ぐ。
 新坊の泣き聲も高くなつた。眼も開いた。
『死んだんぢやないんだよ、初めつから。』と、吉野もホッと安心した樣な顏を上げて、笑ひながら女兒等を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はした。
『はア、大丈夫だ。』と農夫も安心顏。
『何とはア、此處ア瀬が迅えだで、子供等にや危《あぶ》ねえもんせえ。去年もはア……』と、暢氣《のんき》に喋り立てる。
『わア――』と新坊はまた泣く。
『その着物を絞つて下さい、日向|樣《さん》、いや、それより温《あつた》めてやらなくちや。』と、吉野は裙やら袖やら濡れた己が着物の帶を解いて、肌と肌、泣く兒をピッタリと抱いて前を合せる。
『私抱きませう。』と智惠子が言つた。
『構ひません。冷くて氣持が好いですよ。さ、もう泣かなくて可い、好い兒だ! 好い兒だ!……イヤ、恁《か》うしてるよりや家へ歸つて寢かした方が好い。然《さ》う爲《し》ませう日向|樣《さん》! 此儘お送りしますから。温《あつた》めなくちや、惡い!』
『そンだ、其方が好《よ》うがんす。』と農夫も口を添へる。
『濟みません、貴方!』と智惠子は心を籠めて言つて、
『私がうつかりしてゐて這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事になつて……。』
『然《さ》うぢやない、僕が惡いんです。僕が先に川に入つて見せたんだから!』
『否、私……夢見る樣な氣持になつてゐて、つい……。』
 その顏を、吉野はチラと見た。

      六

 星影|疎《まば》らに、川瀬の音も遠くなつた。熟した麥の香が、暗い夜路に漂うてゐる。
 先に立つ女兒《こども》等の心々は、まだ何か恐怖に囚はれてゐて、手に手に小い螢籠を携へて、密々《ひそ/\》と露を踏んでゆく。譯もなく歔欷《すゝりあ》げてゐる新坊を、吉野は確乎《しつか》と懷に抱いて、何か深い考へに落ちた態で、その後に跟《つ》いた。
 智惠子は、片手に濡れた新坊の着物を下げて、時々心配顏に子供の顏を覗き乍ら、身近く吉野と肩を並べた。胸は感謝の情に充溢《いつぱい》になつてゐて、それで、口は餘り利けなかつた。
『阿母樣《おつかあ》!』と、新坊は思い出し樣に時々呼んで、わアと力なく泣く。
『もう泣かないの、今|阿母樣《おつかさん》の處へ伴れてつて下さるわ。ねえ、新坊さん、もう泣かないの。』と、智惠子は横合から頻りに慰める。
『眞箇《ほんと》に私、……貴方《あなた》が被來《いらつしや》らなかつたら、私|奈何《どう》したで御座いませう!』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事はありません。』
『だつて私、萬一の事があつたら、宿の小母さんに甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》にか……』
『日向|樣《さん》!』と吉野は重々しい調子で呼んだ。『僕は貴女に然《さ》う言はれると、心苦しいです。誰だつてあの際あの場處に居たら、あれ位の事をするのは普通《あたりまへ》ぢやありませんか?』
『だつて、此兒の生命《いのち》を救けて下すつたのは、現在貴方ぢや御座いませんですか!』
『日向|樣《さん》!』と吉野は又呼んだ。『も少し眞摯《まじめ》に考へて見ませう……若しあの際、彼處《あそこ》に居たのが貴女でなくて別の人だつたらですね、僕は同じことを行《や》るにしても、もつと違つた心持で行《や》つたに違ひない。』
『まあ貴方《あなた》は、……』
『言つて見れば一種の僞善だ!』
 然《さ》う言ふ顏を、智惠子は暗ながら眤《ぢつ》と仰いだ。何か言はうとしても言へなかつた。
『僞善です!』と、男は自分を叱り附ける樣に重く言つた。渠は今、自分の心が何物かに征服される樣に感じてゐる。それから脱れ樣として恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事を言ふのだ。『僞善です! 人が善といふ名の附く事をする、その動機は二つあります。一つは自分の感情の滿足を得る爲め、畢竟自分に甘える爲め、も一つは他に甘える爲めです。』
『貴方《あなた》は――』と言ふより早く、智惠子の手は突然男の肩に捉まつた。烈しい感動が、女の全身に溢れた。強く強く其顏を男の二の腕に摩《こす》り附けて、
『貴方は……貴方は……』と言ひ乍ら、火の樣な熱い涙が瀧の如く、男の肌に透る。
 吉野は礑《はた》と足を留めて、屹と脣を噛んだ。眼も堅く閉ぢられた。
『わア――』と、驚いた樣に新坊が泣く。
 はしたない事をした、といふ感じが矢の如く女の心を掠めた。と、智惠子は、も一度『貴方は!』迸しる樣に言つて、肩に捉つた手を烈しく男の首に捲いた。
『先生!』と、五六間前方から女兒《こども》等が呼ぶ。
『行きませう!』と男は促した。
『は。』と云ふも口の中。身も世も忘れた態で、顏は男の體から離しともなく二足三足、足は男に縺れる。
『日向|樣《さん》』と男は足を留めた。
『お許し下さい!』と絶え入る樣。
『僕は東京へ歸りませう!』と言ふ目は眤《ぢつ》と暗い處を見てゐる。
『……何故《なぜ》で御座います?』
『……餘り不思議です、貴女と僕の事が。』
『…………』
『歸りませう! 其方が可《い》い。』
『遣《や》りません!』と智惠子は烈しく言つて、男の首を強く絞める。
『あゝ――』と吉野は唸る樣に言つた。
『お、お解りになりますまい、私のこ、心が……』
『日向さん!』と、男の聲も烈しく顫へた。『其言葉を僕は、聞きたくなかつた!』
 矢庭に二つの唇が交された。熟した麥の香の漂ふ夜路に、熱かい接吻の音が幽かに三度四度鳴つた。

      七

 其夜、母に呼ばれて母屋《おもや》へ行つた靜子が、用を濟まして再び庭に出て來た時は、もう吉野の姿が見えなかつた。植込の蔭、築山の上、池の畔、それとなく尋ね廻つて見たが、矢張り見えなかつた。
 客は九時過ぎになつて歸つた。父の信之は醉倒れて了つた。お柳は早くから座を脱して寢てゐたが、
『靜や、吉野|樣《さん》はもうお寢みになつたのかえ。』
『否《いゝえ》、醉つたから散歩して來るつて出てらしつてよ。』
『何時頃?』
『二時間も前だわ。何處へ被行《いらしつ》たでせう!』
『昌作さんとかえ?』
『否、お一人。松藏でもお迎ひにやつて見ませうか?』
『然《さ》うだねえ。』
『大丈夫だよ。』と言ひ乍ら、赤い顏をした信吾が入つて來た。
『彼奴の事だ、橋の方へでも行つてブラ/\してるだらう。それより俺は頭が痛くて爲樣がないから寢かして呉れよ。』
『お先に?』
『歸つたら然う言つて呉れ。そして床を延べて置いてやれ、あゝ醉つた!』
 で、靜子は下女に手傳はして、兄を寢せ、座敷を片附けてから、一人|離室《はなれ》に入つた。夜氣が濕《しつと》りと籠つて、人なき室に洋燈が明るく點いてゐる。
 一枚だけ殘して雨戸を閉め、散亂《ちらか》つた物を丁寧に片寄せて、寢具も布き、蚊帳も吊つた。不圖靜子は、「智惠子さん許《とこ》へ被行《いらし》たのかしら!」といふ疑ひを起した。「だつて、夜だもの。」「然し。」「豈夫《まさか》。」といふ考へが霎時《しばし》胸に亂れた。
「それにしても奈何《どう》なすつたらう!」靜子は、何がなしに此室に居て見たい樣な氣がした。で、夏座布團を布いた机の前に坐つて、心持|洋燈《ランプ》の火を細くした。
『秋になつたら私が此室《こゝ》にゐる樣にしようか知ら!』
 机の上には、書が五六册。不圖其中に、黒い表紙の寫生帳が目に附いた。靜子は何氣なく其れを取つて、或所を披《ひら》いた。
 と、靜子の眼は輝いた。顏が染つた。人なき室をキョロ/\と見廻して又それを熱心に見る。――鉛筆の走書の粗末ではあるが、書かれてあるのは擬《まが》ひもなく靜子自身の顏ではないか!
 Erste《ルステ》 Eindruck《アインドルック》(第一印象)と、獨逸語で其上に書かれた。それは然し、何の事やら靜子には解らなかつた。
 靜子は、氣がさした樣に、俄かにそれを閉ぢて以前の書《ほん》の間に重ねた。そして、逃げる樣に室を出た。心はそこはかとなく動いて、若々しい皷動が頻りに胸を打つた。
 次の頁にも、その次の頁にも、智惠子の顏の書かれてあることは、靜子は遂に知らなかつた。
 間もなく庭に下駄の音がした。靜子は妙に躊躇《ためら》つた上で、急いで又|離室《はなれ》に來た。一枚殘した雨戸から、丁度吉野が上るところ。
『怎《ど》うも遲くなつちやつて。』
『否《いゝえ》。お歸り遊ばせ。』
 恁《か》う云つたが、男の顏を見る事は出來なかつた。俯向《うつむ》いた顏は仄《ほんの》りと紅かつた。急いで洋燈《ランプ》を明るくする。
『實に濟みませんでした。這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に遲くなる積りぢやなかつたんですが……』
『否、貴方。あの、兄はお酒を過して頭痛がすると言つて、お先に……』
『然《さ》うですか。僕は悉皆《すつかり》醒めちやつた。もう何時頃でせう?』
『十時、で御座いませう。』
 吉野はどかりと机の前に坐つた。と靜子は、今し方自分が其處に坐つた事が心に浮んで、『お寢み遊ばせ。』と言ふより早く障子を閉めて縁側に出た。吉野はグタリと首を垂れて眼を瞑つた。着衣はシットリと夜氣に萎《な》えてゐる。裾やら袖やら、川で濡らした此着衣を、智惠子とお利代が強《た》つて勸めて乾かして呉れたのだ。その間、吉野は誰の衣服を着てゐたか!
「智惠子! 智惠子!」と吉野の心は叫んだ。密《そつ》と左の二の腕に手を遣つて見た。其處に顏を押附けて何と言つた※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
『貴方は……貴方は……!』

   其十

      一

 吉野が新坊の命を救けた話は、翌朝朝飯の際に吉野自身の口から、簡單に話された。
 同じ話がまた、前夜其場に行合せた農夫が、午頃《ひるごろ》何かの用で小川家の臺所に來た時、稍詳しく家中の耳に傳へられた。老人達は心から吉野の義氣に感じた樣に、それに就いて語つた。信吾と靜子は、顏にも言葉にも現されぬ或る異つた感じを抱かせられた。
 昌作はまた、若しもそれが信吾によつて爲された事なら甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》にか不愉快を感じたらうが、何がなしに蟲の好く吉野だつたので、その豪いことを誇張して繼母《はゝ》などに説き聞せた。そして、かの橋下の瀬の迅い事が話の起因《もと》で、吉野に對つて頻りに水泳に行く事を慫慂《すゝ》めた。昌作の吉野に對する尊敬が此時からまた加つた。
 其翌日か翌々日、叔母と其子等は盛岡に歸つて行つた。この叔母は、數ある小川家の親戚の中でも、殊更お柳と氣心が合つてゐた。といふよりは、夫《をつと》が非職の郡長上りか何かで、家が餘り裕《ゆた》かで無いところから、お柳の氣褄を取つては時々|恁《か》うして遣つて來て、その都度家計向の補助を得てゆくので。お柳は、松原からの縁談がもう一月の餘もバタリと音沙汰がないのを内々心配してゐたので、密かにこの叔母に相談した。女二人の間には人知れず何事かの手筈が決められた。叔母は素知らぬ顏をして歸つて了つた。
 叔母を送つて好摩の停車場に行つた下男と下女は、新しい一人の人を小川家に導いて
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