二人の外には乘る者も、降りる者もない。漸くの事で、最後の三等車に少しの空席を見附けて乘込むと、その扉を閉め乍ら車掌が號笛《ふえ》を吹く。慌しく汽笛が鳴つて、ガタリと列車が動き出すと、智惠子はヨロヨロと足場を失つて思はず吉野に凭《よ》り掛《かゝ》つた。

      三

 吉野は窓際へ、直ぐ隣つて智惠子が腰を掛けたが、少し體を動かしても互いの體温を感ずる位窮屈だ。女は、何がなしに自分の行動――紹介もなしに男と話をした事――が、はしたない樣な、否、はしたなく見られた樣な氣がして、「だつて、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》切懸《きつかけ》だつたんだもの。」と心で辯疏《いひわけ》して見ても、怎《どう》やら氣が落着かない。乘合の人々からジロ/\顏を見られるので、仄《ほんの》りと上氣してゐた。
 北上山系の連山が、姫神山を中心にして、左右に袖を擴げた樣に東の空に連つた。車窓の前を野が走り木立が走る。時々、夥しい草葉の蒸香《いきれ》が風と共に入つて來る。
 程なく列車が轟と音を立てゝ松川の鐵橋に差かゝると、窓外を眺めて默つてゐた吉野は、『あ
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