『此|女《ひと》は兄に未練を有つてる!』といふ考へが、瞬《またゝ》く後に靜子の感情を制した。厭はしき怖れが、胸に湧いた。然しそれも清子に對する同情を全くは消さなかつた。女は悲しいものだ! と言ふ樣な悲哀が、靜子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。
『怎うです。少し早く歩いては?』と信吾が呼んだ。二人は驚いて顏を擧げた。

      九

 其夜、人々に別れて智惠子が宿に着いた時はもう十時を過ぎてゐた。
 ガタピシする入口の戸を開けると、其處から見通しの臺所の爐邊に、薄暗く火屋《ほや》の曇つた、紙笠の破れた三分心の吊洋燈の下で、物思はし氣に悄然と坐つて裁縫《しごと》をしてゐたお利代は、『あ、お歸りで御座いますか。』と忙しく出迎へる。
『遲くなりまして、新坊さんももうお寢《やす》み?』
『は、皆寢みました。先生もお泊りかと思つたんですけれど……。』と言ひ乍ら先に立つて智惠子の室に入つて、手早く机の上の洋燈を點《とも》す。臥床が延べてあつた。
 お泊りかと思つたといふ言葉が、何故か智惠子の耳に不愉快に響いた。今迄お利代の坐つてゐた所には、長い手紙が擴げたなりに逶※[#「二点しんにょう
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