田さん。あの時そら貴方の前に「むべ山」があつたでせう? あれが私の十八番《おはこ》ですの。屹度拔いて上げませうと思つて待つてると、信吾さんに札が無くなつて、貴方が「むべ山」と「流れもあへぬ」を信吾さんへ遣つたでせう? 私厭になつちまひましたよ。ホホヽヽ。』と、先刻《さつき》の事を喋《しやべ》り出した。『ハハヽヽ。』と四五人一度に笑ふ。
『森川さんの憎いつたらありやしない。那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に亂暴しなくたつて可いのに、到頭「聲きく時」を裂《さ》いちまつた……。』
と、富江は氣に乘つて語り繼《つ》ぐ。
 信吾は、間隔を隔《へだた》つてゐる爲か、何も言はなかつた。笑ひもしなかつた。其心は眼前の智惠子を追うてゐた。そして、其後の清子の心は信吾を追うてゐた。其又後ろの靜子の心は清子を追うてゐた。そして、四人共に何も言はずに足を運んだ。
 路が下田路に合つて稍廣くなつた。前の方の四五人は、甲高い富江の笑聲を圍んで一團になつた。町歸りの醉漢《よひどれ》が、何やら呟《つぶや》き乍ら蹣跚《よろ/\》とした歩調《あしどり》で行き過ぎた
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