》るやうに耳の底に甦《よみがへ》る。『あの時――』と何やら思出される。それが餘りに近い記憶なので却つて全體《みな》まで思出されずに消えて了ふ。四邊は靜かだ。濕《しめ》つた土に擦《す》れる下駄の、音が取留めもなく縺《もつ》れて、疲れた頭が直ぐ朦々《もう/\》となる。霎時《しばし》は皆無言で足を運んだ。
 田の中を逶《うね》つた路が細い。十人は長い不規則な列を作つた。最先に沼田が行く。次は富江、次は愼次、次は校長……森川山内と續いて、山内と智惠子の間は少し途斷《とぎ》れた。智惠子のすぐ後ろを、丈高い信吾が歩いた。
 智惠子は甘い悲哀を感じた。若い心はウットリとして、何か恁《か》う、自分の知らなんだ境を見て歸る樣な氣持である。詰らなく騷いだ! とも思へる。樂しかつた! とも思へる。そして、心の底の何處かでは、富江の阿婆摺《あばず》れた噪《はしや》ぎ方が、不愉快でならなかつた。そして、何といふ譯もなしに直ぐ後ろから跟《つ》いて來る信吾の跫音が心にとまつてゐた。
 其姿は、何處か、夢を見てゐる人の樣に悄然とした[#「とした」はママ]、髮も亂れた。
 先づ平生の心に歸つたのは富江であつた。『ね、沼
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