洗つて來た。富江が不平を言ひ出して、三人に更めて附けようと騷いだが、それは信吾が宥《なだ》めた。そして富江は遂に消さなかつた。森川は上衣の釦《ボタン》をかけて、乾いた手巾《ハンケチ》で顏を拭いた。宛然《さながら》厚化粧した樣になつて、黒い齒の間に一枚の入齒が、殊更らしく光つた。妖怪の樣だと言つて一同がまた笑つた。
 軈てドヤ/\と歸路についた。信吾兄妹も鶴飼橋まで送ると言つて一同と一緒に戸外に出た。雲一つなき天に片割月が傾いて、靜かにシットリとした夜氣が、相應に疲れてゐる各々の頭腦に、水の如く流れ込んだ。

      七

 淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光が柔かに濕《うるは》うてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂を蕩かして、天地は限りなき靜寂の夢を罩《こ》めた。見知らぬ郷の音信の樣に、北上川の水瀬の音が、そのしつとりとした空氣を顫はせる。
 男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭腦は、今までの華やかな明るい室の中の樣と、この夜の村の靜寂の間の關係を、一寸心に見出しかねる……と、眼の前に歌留多の札がちらつく。歌の句が片々に混雜《こんがらが》つて、唆《そゝ
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