加藤に親しみ、清子を見る機會を多くする、――否、清子に自分を見せる機會を多くする。此方が、清子を思つては居ないが、清子には何時までも此方を忘れさせたくない。それ許りでなく、猫が鼠を嬲《なぶ》る如く敗者の感情を弄ばうとする、荒んだ戀の驕慢《プライド》は、も一度清子をして自分の前に泣かせて見たい樣な希望さへも心の底に孕んだ。
『清子さんは些とも變らないでせう。』と何かの序に靜子が言つた。靜子は、今日の兄の應待振の如何にも大人びてゐたのに感じてゐた。そして、兄との戀を自ら捨てた女友《とも》が、今となつて何故《なぜ》|那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》未練氣のある擧動をするだらう。否、清子は自ら恥ぢてゐるのだ、其爲に臆すのだ、と許り考へてゐた。
『些とも變らないね。』と信吾は短い髭を捻つた。『幸福に暮してると年は老らないよ。』
『さうね。』
 其話はそれ限《きり》になつた。
『今日隨分長く學校に被居《いらし》たわね。貴兄《あなた》智惠子さんに逢つたでせう?』
『智惠子? ウン日向さんか。逢つた。』
『何う思つて、兄樣は?』と笑を含む。
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