橋を渡つて十町許りで大字川崎の小川家に行く。落ちかけた夏の日が、熟して割れた柘榴《ざくろ》色の光線を、青々とした麥畑の上に流して、眞正面に二人の顏を彩《いろど》つた。
信吾は何氣ない顏をして歩き乍らも心では清子の事を考へてゐた。僅か二十分許りの間、座には靜子も居れば、加藤の母も愼次も交る/\挨拶に出た。信吾は極く物慣れた大人振つた口をきいた。清子は茶を薦め菓子を薦めつゝ唯|淑《しとや》かに、口數は少なかつた。そして男の顏を眞正面には得見なかつた。
唯一度、信吾は對手を「奧樣《おくさん》」と呼んで見た。清子は其時|俯《うつむ》いて茶を注《つ》いでゐたが、返事はしなかつた。また顏も上げなかつた。信吾は女の心を讀んだ。
清子の事を考へると言つても、別に過ぎ去つた戀を思出してゐるのではない。また豫期してゐた樣な不快を感じて來たのでもない。寧ろ、一種の滿足の情が信吾の心を輕くしてゐる。一口に言へば、信吾は自分が何處までも勝利者であると感じたので。清子の擧動がそれを證明した。そして信吾は、加藤に對して少しの不快な感を抱いてゐない、却つてそれに親しまう、親しんで而して繁く往來しよう、と考へた。
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