れず語つたのだ。……此追憶は、流石に信吾の心を輕くはしない。が、その時の事を考へると、『俺は強者だ。勝つたのだ。』といふ淺間しい自負心の滿足が、信吾の眼に荒《すさ》んだ輝きを添へる……。
取濟ました顏をして、信吾は大胯に杖を醫院の玄關に運んだ。
昔は町でも一二の濱野屋といふ旅籠屋であつた、表裏に二階を上げた大きい茅葺家に、思切つた修繕を加へて、玄關造にして硝子戸を立てた。その取つてつけた樣な不調和な玄關には、『加藤醫院』と鹿爪らしい楷書で書いた、まだ新しい招牌《かんばん》を掲げた。――開業醫の加藤はもと他村の者であるが、この村に醫者が一人も無いのを見込んで一昨年の秋、この古家を買つて移つて來た。生れ村では左程の信用もないさうだが、根が人好きのする男で、技術の巧拙より患者への親切が、先づ村人の氣に入つた。そして、村長の娘の清子と結婚してからは馬を買ひ自轉車を買ひ、田舍者の目を驚かす手術臺やら機械やらを置き飾つて、隣村二ヶ村の村醫までも兼ねた。
信吾が落着いた聲で案内を乞ふと、小生意氣らしい十七八の書生が障子を開けた。其處は直ぐ藥局で、加藤の弟の代診をしてゐる愼次が、何やら薄紅い藥を
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