−94−57]《あんな》奴ア吾々軍人の面汚しだ。』
 お柳は猶その話を詳しく訊いた上で、その事は當分靜子にも誰にも言ふなと口留めした。
 志郎は淡白な軍人氣質、信吾を除いては誰とも仲が好い、緩々《ゆる/\》話をするなんかは大嫌ひで、毎日昌作と共に川にゆく、吉野とも親しんだ。――
 常ならぬ物思ひは、吉野と信吾と靜子の三人の胸にのみ潜んだ。そして、三人とも出來るだけそれを顏に表さぬ樣に努めた。智惠子の名は、三人とも怎《ど》うしたものか成るべく口に出すことを避けた。
 吉野は醫師の加藤と親んで、寫生に行くと言つては、重ねて其家を訪ねた。
 智惠子は唯一度、吉野も信吾も居らぬ時に遊びに來たツ限《きり》であつた。
 暑い/\八月も中旬になつた。螢の季節も過ぎた。明日は陰暦の盂蘭盆といふ日、夕方近くなつて、門口から噪《はしや》いだ聲を立てながら神山富江が訪ねて來た。

      二

 富江が來ると、家中が急に賑かになつて、高い笑聲が立つ。暑さ盛りをうつら/\と臥てゐたお柳は今し方起き出して、東向の縁側で靜子に髮を結《い》はしてる樣子。その縁側の邊から、富江の聲が霎時《しばらく》聞えてゐたが、
前へ 次へ
全201ページ中152ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング