學校の門だ。つと入つた。
 職員室の窓が開いて、細い竿釣が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シャツ一枚になつて、一生懸命釣道具を弄《いぢく》つてゐた。
 不圖顏を上げると、
『オヤ、日向さん、何時お歸りになりました?』
『は、あの、昨日夕方に。』と、外に立つて頭を下げる。洗ひ髮がさらりと肩から胸へ落つる。智惠子は、うるさい樣にそれを手で後ろにやつた。
『面白かつたでせう? さ、まあお上りなさい。』
『否《いゝえ》、あの。』と息が少し切れる。『あの私宛の手紙でも參つてゐませんでせうか?』
『奈何《どう》でしたか! あ、來ませんよ、神山樣の方の間違です。まあお上りなさい。』
『は有難う御座います。一寸あの、一寸、後ろの山へ行つて見ますから。』
『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハヽヽ。ま可いでせう?』
『は、何れ明日でも。』と行掛ける。
『あ、日向樣、貴女《あなた》に少しお願ひがありますがねえ。』
『何で御座いますか?』
『何有《なあに》眞《ほん》の些とした事ですがね。』と、森川は笑つてゐる。
『何で御座いますか、私に出來る事なら……。』と智惠子は何時になく焦《もど》かし相な顏をした。

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