洗つて來た。富江が不平を言ひ出して、三人に更めて附けようと騷いだが、それは信吾が宥《なだ》めた。そして富江は遂に消さなかつた。森川は上衣の釦《ボタン》をかけて、乾いた手巾《ハンケチ》で顏を拭いた。宛然《さながら》厚化粧した樣になつて、黒い齒の間に一枚の入齒が、殊更らしく光つた。妖怪の樣だと言つて一同がまた笑つた。
軈てドヤ/\と歸路についた。信吾兄妹も鶴飼橋まで送ると言つて一同と一緒に戸外に出た。雲一つなき天に片割月が傾いて、靜かにシットリとした夜氣が、相應に疲れてゐる各々の頭腦に、水の如く流れ込んだ。
七
淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光が柔かに濕《うるは》うてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂を蕩かして、天地は限りなき靜寂の夢を罩《こ》めた。見知らぬ郷の音信の樣に、北上川の水瀬の音が、そのしつとりとした空氣を顫はせる。
男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭腦は、今までの華やかな明るい室の中の樣と、この夜の村の靜寂の間の關係を、一寸心に見出しかねる……と、眼の前に歌留多の札がちらつく。歌の句が片々に混雜《こんがらが》つて、唆《そゝ》るやうに耳の底に甦《よみがへ》る。『あの時――』と何やら思出される。それが餘りに近い記憶なので却つて全體《みな》まで思出されずに消えて了ふ。四邊は靜かだ。濕《しめ》つた土に擦《す》れる下駄の、音が取留めもなく縺《もつ》れて、疲れた頭が直ぐ朦々《もう/\》となる。霎時《しばし》は皆無言で足を運んだ。
田の中を逶《うね》つた路が細い。十人は長い不規則な列を作つた。最先に沼田が行く。次は富江、次は愼次、次は校長……森川山内と續いて、山内と智惠子の間は少し途斷《とぎ》れた。智惠子のすぐ後ろを、丈高い信吾が歩いた。
智惠子は甘い悲哀を感じた。若い心はウットリとして、何か恁《か》う、自分の知らなんだ境を見て歸る樣な氣持である。詰らなく騷いだ! とも思へる。樂しかつた! とも思へる。そして、心の底の何處かでは、富江の阿婆摺《あばず》れた噪《はしや》ぎ方が、不愉快でならなかつた。そして、何といふ譯もなしに直ぐ後ろから跟《つ》いて來る信吾の跫音が心にとまつてゐた。
其姿は、何處か、夢を見てゐる人の樣に悄然とした[#「とした」はママ]、髮も亂れた。
先づ平生の心に歸つたのは富江であつた。『ね、沼
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