に休息した。富江一人は彼室《あちら》へ行き此室《こちら》へ行き、宛然《さながら》我家の樣に振舞つた。お柳は朝から口喧しく臺所を指揮《さしづ》してゐた。
晩餐の際には、嚴めしい口髭を生やした主人の信之も出た。主人と巡査と校長の間に持上つた鮎釣《あゆかけ》の自慢話、それから、此近所の山にも猿が居る居ないの議論――それが濟まぬうちに晩餐は終つて巡査は間もなく歸つた。
軈て信吾の書齋にしてゐる離室《はなれ》に、歌留多の札が撒《ま》かれた。明るい五分心の吊洋燈《つるしランプ》二つの下に、入交りに男女の頭が兩方から突合つて、其下を白い手や黒い手が飛ぶ。行儀よく並んだ札が見る間に減つて、開放した室が刻々に蒸熱《むしあつ》くなつた。智惠子の前に一枚、富江の前に一枚……頬と頬が觸れる許りに頭が集る。『春の夜の――』と山内が妙に氣取つた節で讀上げると、
『萬歳ツ。』と富江が金切聲で叫んだ。智惠子の札が手際よく拔かれて、第一戰は富江方の勝に歸した。智惠子、信吾、沼田、愼次、清子の顏には白粉が塗られた。信吾の片髭が白くなつたのを指さして、富江は聲の限り笑つた。一同もそれに和した。沼田は片肌を脱ぎ、森川は立襟の洋服の釦を脱して風を入れ乍ら、乾き掛つた白粉で皮膚が痙攣《ひきつ》る樣なのを氣にして、顏を妙にモグ/\さしたので、一同は又笑つた。
『今度は復讐しませう。』と信吾が言つた。
『ホホヽヽ。』と智惠子は唯笑つた。
『新しく組を分けるんですよ。』と、富江は誰に言ふでもなく言つて、急《いそが》しく札を切る。
六
二度目の合戰が始つて間もなくであつた。靜子の前の「たゞ有明」の札に、對合《むかひあ》つた昌作の手と靜子の手と、殆んど同時に落ちた。此方が先だ、否、此方が早いと、他の者まで面白づくで騷ぐ。
『敗《ま》けてお遣りよ。昌作さんが可哀想だから。』と見物してゐたお柳が喙《くちばし》を容れた。不快な顏をして昌作は手を引いた。靜子は氣の毒になつて、無言で昌作の札を一枚自分の方へ取つた。昌作はそれを邪慳に奪ひ返した。其合戰が濟むと、昌作は無理に望んで讀手になつた。そして到頭終ひまで讀手で通した。
何と言つても信吾が一番上手であつた。上の句の頭字を五十音順に列べた其配列法が、最初少からず富江の怨みを買つた。しかし富江も仲々信吾に劣らなかつた。そして組を分ける毎に、信吾と敵になるの
前へ
次へ
全101ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング