か吉野が立つてゐる。
『あら!』と智惠子は恁《か》う小聲に言つて、若い血が顏に上つた。何がなしに體の加減が良くないので、立つてゐても力が無い。幾挺の太皷の強い響きが、腹の底までも響く。――今しもその太皷打が目の前を過ぎる。
 吉野は無邪氣に笑つた。
 二人は並んで立つた、立並ぶ見物の後ろだから人の目も引かぬ。
(私ーとー)と、好い聲で一人の女が音頭を取る。それに續いた十人許りの娘共は、直ぐ聲を合せて歌ひ次いだ。――
(――お前ーはーア御門ーのーとびーらーア、朝ーにーイわかーれーてエ、ー晩に逢ふ――)
 同じ樣な花笠に新しい浴衣、淡紅色メリンスの襷を端長く背に結んだ其娘共の中に、一人、背の低い肥つたのがあつて、高音中音《ソプランアルト》の冴えた唄に際立つ次中音《テノル》の調子を交へた。それが態と道化た手振りをして踊る。見物は皆笑ふ。
 ドヽドンと、先頭の太皷が合《あひ》を入れた。續いた太皷が皆それを遣る。調子を代へる合圖だ。踊の輪は淀んで唄が止む、下駄の音がゾロ/\と縺れる。
(ドヾドコドン、ドコドン――)と新しく太皷が鳴り出す。――ヨサレ節といふのがこれで。――淀んだ輪がまたそれに合せて踊り始める。何處やらで調子はづれた高い男の聲が、最先に唄つた――
(ヨサレー茶屋のかーア、花染ーの――たす――き――イ――)
『面白いですねえ。』と、吉野は智惠子を振返つた。『宛然《まるで》古代《むかし》に歸つた樣な氣持ぢやありませんか!』
『えゝ。』智惠子は踊にも唄にも心を留めなかつた樣に、何か深い考へに落ちた態《さま》で惱まし氣に立つてゐた。
 と見た吉野は、『貴女《あなた》何處かまだ惡いんぢやないんですか? お體《からだ》の加減が。』
『否《いゝえ》、たゞ少し……』
 俄かに見物が笑ひどよめく。今しも破蚊帳を法衣《ころも》の樣に纏つて、顏を眞黒に染めた一人の背の高い男が、經文の眞似をしながら巫山戯《ふざけ》て踊り過ぎるところで。
『吉野さん!』智惠子は思ひ切つた樣に恁《か》う囁いた。
『何です?』
『あの……』と、眤《ぢつ》と俯向《うつむ》いた儘で、『私今日、あの、困つた事を致しました!』
『……何です、困つた事ツて?』
 智惠子は不圖顏を上げて、何か辛さうに男を仰いだ。
『あの、私小川さんを憤《おこ》らして歸してよ。』
『小川を※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 怎《ど》うし
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