何やら鋭く笑ひ捨てゝ、縁側傳ひに足音が此方へ來る。
 信吾も晝寢から覺めた許り、不快な夢でも見た後の樣に、妙に燻んだ顏をして胡座《あぐら》を掻いてゐた。富江の聲や足音は先刻から耳についてゐる。が、心は智惠子の事を考へてゐた。
 或は一人、或は吉野と二人、信吾は此月に入つてからも三四度智惠子を訪ねた。二人の話はもう以前の樣に逸《はず》まなくなつた。吉野が來てからの智惠子は、何處となく變つた點が見える。さればと言つて別に自分を厭ふ樣な樣子も見せぬ。
 かの新坊の溺死を救けた以來、吉野が一人で、或は昌作を伴れて、智惠子を訪ねることも、信吾は直ぐに感附いたゐた。二人の友人の間には何日しか大きい溝が出來た。信吾は苛々《いら/\》して不快な感情に支配されてゐる。
 いつそ結婚を申込んでやらうか、と考へることがないでもない。が、信吾は左程までに深く智惠子を思つてるのでもないのだ。高が田舍の女教員だ! といふ輕侮が常に頭にある。確乎《しつかり》した女だとも思ふ。確固《しつかり》した、そして美しい女だけに、信吾は智惠子をして他の男――吉野を思はしめたくない。何といふ理由なしに。自分には智惠子に思はれる權利でもある樣に感じてゐる。「吉野を歸して了ふ工夫はないだらうか!」恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》考へまでも時として信吾を惱ました。
 そして又、靜子の吉野に對する素振《そぶり》も、信吾の目に快くはなかつた。總じて年頃の兄が年頃の妹の男に親しまうとするのを見るのは、樂しいものではない。平生戀といふものに自由な信條を抱いてる男でも、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》場合には屹度自分の心の矛盾を發見する。
『戸籍上は兎も角、靜子はもう未亡人ぢやないか!』
 信吾の頭には恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》皮肉さへも宿つてゐる。これと際立つところはないが靜子が吉野の事といへば何より大事にしてゐる、それが唯癪に障る。理由もなく不愉快に見える――。
『まア、起きてらつしつたんですか!』と、富江は開け放した縁側に立つた。
『貴女《あなた》でしたか!』
『オヤ、別の人を待つてゐたの?』
『ハッハハ。不相變《あひかはらず》不減口《へらず
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