歸つた。それは他ではない、信之の次男、靜子とは一歳劣りの弟の、志郎といふ士官候補生だ。
志郎は兄弟中の腕白者、お柳の氣には餘り入らぬが、父の信之からは此上なく愛されてゐる。靜子と縁談の持上つてゐる松原家の三男の狷介《けんすけ》とは小さい時からの親友で、一緒に陸軍に志し試驗も幸ひと同時に及第して士官學校に入つた。一日から二十日間の休暇を一週間許り仙臺に遊んで、確《しか》とした前知らせもなく歸つて來たのだ。
或る日、母のお柳は志郎を呼んで、それとなく松原中尉の噂を訊いてみた。その返事は少からずお柳を驚かせた。
『松原の政治か! 彼奴ア駄目だよ、阿母樣、狷介なんかも兄貴に絶交して遣らうなんて云つてゐた。』
『奈何《どう》してだい、それはまた?』
『奈何してつて、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》馬鹿はない。それや評判が惡いよ、此年の春だつけかなア、下宿してゐた素人屋の娘を孕《はら》ませて大騒ぎを行《や》つたんだよ。友人なんか仲に入つて百五十圓とか手切金を遣つたそうだ。那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》奴ア吾々軍人の面汚しだ。』
お柳は猶その話を詳しく訊いた上で、その事は當分靜子にも誰にも言ふなと口留めした。
志郎は淡白な軍人氣質、信吾を除いては誰とも仲が好い、緩々《ゆる/\》話をするなんかは大嫌ひで、毎日昌作と共に川にゆく、吉野とも親しんだ。――
常ならぬ物思ひは、吉野と信吾と靜子の三人の胸にのみ潜んだ。そして、三人とも出來るだけそれを顏に表さぬ樣に努めた。智惠子の名は、三人とも怎《ど》うしたものか成るべく口に出すことを避けた。
吉野は醫師の加藤と親んで、寫生に行くと言つては、重ねて其家を訪ねた。
智惠子は唯一度、吉野も信吾も居らぬ時に遊びに來たツ限《きり》であつた。
暑い/\八月も中旬になつた。螢の季節も過ぎた。明日は陰暦の盂蘭盆といふ日、夕方近くなつて、門口から噪《はしや》いだ聲を立てながら神山富江が訪ねて來た。
二
富江が來ると、家中が急に賑かになつて、高い笑聲が立つ。暑さ盛りをうつら/\と臥てゐたお柳は今し方起き出して、東向の縁側で靜子に髮を結《い》はしてる樣子。その縁側の邊から、富江の聲が霎時《しばらく》聞えてゐたが、
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