はお酒を過して頭痛がすると言つて、お先に……』
『然《さ》うですか。僕は悉皆《すつかり》醒めちやつた。もう何時頃でせう?』
『十時、で御座いませう。』
吉野はどかりと机の前に坐つた。と靜子は、今し方自分が其處に坐つた事が心に浮んで、『お寢み遊ばせ。』と言ふより早く障子を閉めて縁側に出た。吉野はグタリと首を垂れて眼を瞑つた。着衣はシットリと夜氣に萎《な》えてゐる。裾やら袖やら、川で濡らした此着衣を、智惠子とお利代が強《た》つて勸めて乾かして呉れたのだ。その間、吉野は誰の衣服を着てゐたか!
「智惠子! 智惠子!」と吉野の心は叫んだ。密《そつ》と左の二の腕に手を遣つて見た。其處に顏を押附けて何と言つた※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
『貴方は……貴方は……!』
其十
一
吉野が新坊の命を救けた話は、翌朝朝飯の際に吉野自身の口から、簡單に話された。
同じ話がまた、前夜其場に行合せた農夫が、午頃《ひるごろ》何かの用で小川家の臺所に來た時、稍詳しく家中の耳に傳へられた。老人達は心から吉野の義氣に感じた樣に、それに就いて語つた。信吾と靜子は、顏にも言葉にも現されぬ或る異つた感じを抱かせられた。
昌作はまた、若しもそれが信吾によつて爲された事なら甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》にか不愉快を感じたらうが、何がなしに蟲の好く吉野だつたので、その豪いことを誇張して繼母《はゝ》などに説き聞せた。そして、かの橋下の瀬の迅い事が話の起因《もと》で、吉野に對つて頻りに水泳に行く事を慫慂《すゝ》めた。昌作の吉野に對する尊敬が此時からまた加つた。
其翌日か翌々日、叔母と其子等は盛岡に歸つて行つた。この叔母は、數ある小川家の親戚の中でも、殊更お柳と氣心が合つてゐた。といふよりは、夫《をつと》が非職の郡長上りか何かで、家が餘り裕《ゆた》かで無いところから、お柳の氣褄を取つては時々|恁《か》うして遣つて來て、その都度家計向の補助を得てゆくので。お柳は、松原からの縁談がもう一月の餘もバタリと音沙汰がないのを内々心配してゐたので、密かにこの叔母に相談した。女二人の間には人知れず何事かの手筈が決められた。叔母は素知らぬ顏をして歸つて了つた。
叔母を送つて好摩の停車場に行つた下男と下女は、新しい一人の人を小川家に導いて
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