たその時、智惠子は、あ、これだ! と其靴に目を留めたつけ!
 村で螢の名所は二つ、何方《どつち》に爲《し》ようと智惠子が言ひ出すと、子供らは皆|舟綱《ふなた》橋に伴れてつて呉れと強請《せが》んだ。
『彼方には男生徒が澤山行つてるから、お前達には取れませんよ。』恁《か》う智惠子が言つた。女兒等は、何有《なあに》男に敗《ま》けはしないと口々に騷いだが、結句智惠子の言葉に從つて鶴飼橋に來た。
 夏の夜、この橋の上に立つて、夜目《よめ》にも著《しる》き橋下の波の泡を瞰下《みおろ》し、裾も袂も涼しい風にはらめかせて、數知れぬ囁《さゝや》きの樣な水音に耳を澄した心地は長く/\忘られぬであらう。南岸の崖の木々の葉は、その一片々々《ひとつ/\》が光るかと見えるまで、無數の螢が集つてゐて、それが時を計つて、ポーッと一度に青く光る。川水も青く底まで透いて見える。と、一度にスッと暗くなる。また光る、また消える、また光る……。其中から、迷ひ出る樣に風に隨つて飛ぶのが、上から下から、橋の下を潜り、上に立つ人の鬢《びん》を掠《かす》める。低く飛んだのが誤つて波頭に呑まれてその儘あへなく消えるものもある。
 低くなつた北岸の川原にも、圓葉楊《まるばやなぎ》の繁みの其方此方、青く瞬く星を鏤めた其隅々には、暗に仄めく月見草が、しと/\と露を帶びて、一團づゝ處々に咲き亂れてゐる。
 女兒等は直ぐ川原に下りて、キャッ/\と騷ぎ乍ら流れる螢を追つてゐる。智惠子は何がなしに、唯何がなしに橋の上にゐたかつた。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事は無い! と否み乍らも、何がなしに、若しや、若しや、といふ朦乎《ぼんやり》した期待が、その通り路を去らしめなかつた。
 今日一日の種々な心持と違つた、或る別な心持が、新しく智惠子の心を領した。そこはかとなき若き悲哀――手頼りなさが、消えみ明るみする螢の光と共に胸に往來して、他《ひと》にとも自分にとも解らぬ、一種の同情が、自《おのづ》と呼吸を深くした。
 幸福とは何か? 這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》考へが浮んだ。神の愛にすがるが第一だ、と自分に答へて見た。不圖智惠子は、今日一日全く神に背いて暮した樣な氣がして來た。『神に遁れる、といふ樣な事も有得るですね。
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