』と、何時だつたか信吾の言つた言葉も思ひ出された。智惠子の若い悲哀は深くなつた。遂に讃美歌を歌ひ出した。
『……やーみ路をー、てーらせりー、かーみはーあーいーなりー。』
「愛」といふ語が何がなく懷しかつた。そして又繰り返した。『……あーいーなり……。』
下駄の音が橋に傳はつた。智惠子は鋭敏にそれを感じて、つと振返つた。が、待構へてでも居た樣に、不思議に動悸もしない。其人とは蟲が知らしたのだが……。
三
『日向樣ぢやありませんか?』恁う言つて、吉野は近づいて來た。
『まア、貴方で御座いましたか! 昨日は失禮致しました。』
『僕こそ。』と言ひながら、男は少し離れて鋼線の欄干に靠れた。『意外な所で又お目にかゝりましたね。貴女《あなた》お一人ですか?』
『否《いゝえ》、子供達に強請《せが》まれて螢狩に。貴方も御散歩?』
『え。少し酒を飮まされたもんですから、密乎《こつそり》逃げ出して來たんです。實に好い晩ですねえ!』
『えゝ。』
不圖話が斷れた。橋の下の川原には女兒等が夢中になつて螢を追つてゐる。
智惠子は胸を欄干に推當てた故か、幽かに心臟の鼓動が耳に響く。其間にも崖の木の葉が、光り又消える。
『貴女は、時々|被來《いらつしや》るんですか、此處等《こゝいら》に?』
『否。……滅多に夜は出ませんですけれど。……今日は餘り暑かつたもんで御座いますから!』
『あゝ然《さ》うですか!』
話はまた斷れた。
『隨分澤山な螢で御座いますねえ!』と、今度は智惠子が言つた。
『えゝ、東京ぢや迚《とて》も見られませんねえ。』
『左樣《さう》で御座いませうねえ。』
『あ、貴女は以前東京に被居《ゐらしつ》たんですつてねえ?』
『え。』
『餘程以前ですか?』
『六七年前までで御座います。』
『然《さ》うでしたか!』と、吉野はまた何か言はうとしたが、立ち入つた身の上の話と氣が附いて、それなり止めた。
二人は又|接穗《つぎほ》なさに困つた。そして長い事默してゐた。吉野は既《も》う顏の熱《ほて》りも忘られて、醉ひ醒めの侘しさが、何がなしの心の望と戰つた。つい四五日前までは不見不知《みずしらず》の他人であつた若い美しい女と、恁うして唯二人人目も無き橋の上に並んでゐると思ふと、平生烈しい内心の壓迫を享け乍ら、遂今迄その感情の滿足を圖らなかつた男だけに、言う許りなき不安が、「男は死ぬま
前へ
次へ
全101ページ中67ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング