で町に出た吉野の歸つた時は、先に歸つた信吾が素知らぬ顏をして、客の誰彼と東京談をしてゐた。無理強ひの盃四つ五つ、それが悉皆《すつかり》體中に循《まは》つて了つて、聞苦しい土辯の川狩の話も興を覺えた。眞紅《まつか》な顏をした吉野は、主人のカッポレを機《しほ》に密乎《こつそり》と離室に逃げ歸つた。
其縁側には、叔母の子供等や妹達を對手に、靜子が何やら低く唱歌を歌つてゐた。
『あゝ、悉皆《すつかり》醉つちやつた。』恁う言つて吉野は縁に立つ。
『御迷惑で御座いましたわね。お苦しいんですか其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に?』
燈火《あかり》に背《そむ》いた其笑顏が、何がなしに艶に見えた。涼しい夜風が遠慮なく髮を嬲《なぶ》る。庭には植込の繁みの中に螢が光つた。子供達は其方にゆく。
『飮みつけないもんですからね。然し氣持よく醉ひましたよ。』と言ひ乍ら、吉野は庭下駄を穿いた。其實、顏がぽつぽつ[#「ぽつぽつ」に傍点]と熱《ほて》るだけで、格別醉つた樣な心地でもない。
『夜風に當ると可《よ》う御座いますわ。』
『え、些《ち》と歩いて見ませう。』と、酒臭い息を涼しい空に吹く。月の無い頃で、其處此處に星がちらついた。
『靜や、靜や。』と母屋の方からお柳の聲がした。
吉野はブラリ/\と庭を拔けて、圃路《はたけみち》に出た。追駈ける樣な家の中の騷ぎの間々に、靜かな麥畑の彼方から水の音がする。暗を縫うて見え隱れに螢が流れる。
夜涼《よびえ》が頬を舐めて、吉野は何がなしに一人居る嬉しさを感じた。恁《か》うした田舍の夜路を、何の思ふことあるでもなく、微醉《ほろゑひ》の足の亂れるでもなく、しつとりとした空氣を胸深く吸つて、ブラリ/\と辿る心地は、渠が長く/\忘れてゐた事であつた。北上川の水音は漸々近くなつた。足は何時しか、町へ行く路を進んでゐた。
轟然たる物の響の中、頭を壓する幾層の大厦に挾まれた東京の大路を、苛々《いら/\》した心地で人なだれに交つて歩いた事、兩國近い河岸の割烹店《レストーラン》の窓から、目の下を飛ぶ電車、人車、駈足をしてる樣な急しい人々、さては、濁つた大川を上り下りの川蒸汽、川の向岸に立列んだ、強い色彩の種々の建物などを眺めて、取り留めもない、切迫塞《せつぱつま》つた苦痛に襲れてゐた事などが、怎《ど》うやらずつ
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