たかなア!』
智惠子は默つて了つた。
『盛岡でお逢ひになつたんですつてね、吉野に?』
『え。渡邊さんといふお友達の家に參りましたが、その方の兄さんとお親しい方だとかで……あの、些とお目に懸つたんで御座います。』
「巧く言つてやがらア、畜生奴!」と心の中。『甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]男です、貴女の見る所では?』
智惠子は不快を感じて來た。『奈何ツて、別に……。』
『僕はあゝした男が大好《だいすき》ですよ。僕の知つてる美術家連中も少くないが、吉野みたいな氣持の好い、有望な男は居ませんよ……。』と、信吾は誇張した言方をして、女の顏色を見る。
『然うで御座いますか。』と言つた限《きり》、智惠子は眞面目な顏をしてゐる。
話は遂にはずまなかつた。智惠子には若しや恁うしてる所へ其人が來はせぬかといふ心配がある。そして、其人に關する事を言ひ出されるのが、何がなしに侮辱されてる樣な氣がする。信吾は信吾で、妙に皮肉な考へ許り頭に浮んだ。
それでも、四十分許り向ひ合つてゐて不圖氣が附いた樣にして信吾はその家を辭した。
『畜生奴!』恁う先づ心に叫んだ。
元が用があつて探しに來たのでも無いのだから、その儘家路を急いだ。母は二三日前からまた枕に就いた。父は留守。其處へ饒舌《おしやべり》の叔母が子供達と共に泊りに來たのが、今朝も信吾は其叔母に捉まつて出懸けかねた。吉野は昌作を伴れて出懸けた。午後になつて父が歸ると、信吾は何となく吉野と智惠子の事が氣に掛つた。それは一つは退屈だつた爲めでもある。
も一つには、その二人が自分の紹介も待たずして知己になつたのが、譯もなく不愉快なのだ。隱して置いた物を他人に勝手に見られた樣な感じが、信吾の心を焦立《いらだた》せてゐる。
『今日は奈何して、あゝ冷淡だつたらう?』と、智惠子の事を考へ乍ら、信吾は強く杖を揮つて、路傍の草を自暴《やけ》に薙ぎ倒した。
其九
一
叔母一行が來て家中が賑つてる所へ夕方から村の有志が三四人、門前寺の梁《やな》に落ちたといふ川鱒を持つて來て酒が始つたので、病床のお柳までが鉢卷をして起きるといふ混雜、客自慢の小川家では、吉野までも其席に呼出した。燈火の點く頃には、少し酒亂の癖のある主人の信之が、向鉢卷をしてカッポレを踊り出した。
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