きぢやないでせう?』
『でもないんで御座いますけれど……然し今夜は、真箇《ほんと》に楽う御座いました。』と遠慮勝に男を仰いだ。
『ハハヽヽ。』と笑つて信吾は杖《ステツキ》の尖《さき》でコツ/\石を叩き乍ら歩いたが、
『何ですね。貴女は基督教信者《クリスチヤン》で?』
『ハ。』と低い声で答へる。
『何か其方の本を、貸して下《くださ》いませんか? 今迄遂宗教の事は、調べて見る機会も時間もなかつたんですが、此夏は少し遣つて見ようかと思ふンです。幸ひ貴女の御意見も聞かれるし……。』
『御覧になる様な本なんぞ……アノ、私こそ此夏は、静子さんにでもお願して頂いて、何か拝借して勉強したいと思ひまして……。』
『否《いや》、別に面白い本も持つて来ないんですが、御覧になるなら何時でも……。すると何ですか、此夏は何処にも被行《いらつしや》らないんですか?』
『え。先《ま》ア其積りで……。』
 路は小い杜《もり》に入つて、月光《つきかげ》を遮《さへぎ》つた青葉が風もなく、四辺《あたり》を香《にほ》はした。

     (四)の八

 仄暗い杜を出ると、北上川の水音が俄かに近くなつた。
『貴女《あなた》は小説はお嫌ひですか?』と、信吾は少し突然《だしぬけ》に問うた。其の時はモウ肩も摩《す》れ/\に並んでゐた。
『一概には申されませんけれど、嫌ひぢや御座いません。』
と落着いた答へをして閃《ちら》と男の横顔を仰いだが、智恵子の心には妙に落着がなかつた。前方《まへ》の人達からは何時しか七八間も遅れた。背後《うしろ》からは清子と静子が来る。其跫足も怎《どう》やら少し遠ざかつた。そして自分が信吾と並んで話し乍ら歩く……何となき不安が胸に萌《きざ》してゐた。
 立留つて後の二人を待たうかと、一歩毎《ひとあしごと》に思ふのだが、何故かそれも出来なかつた。
『あれはお読みですか、風葉の「恋ざめ」は?』と信吾はまた問うた。
『アノ発売禁止になつたとか言ふ……?』
『然うです。あれを禁止したのは無理ですよ。尤もあれだけぢや無い、真面目な作で同じ運命に逢つたのが随分ありますからねえ。折角|拵《こしら》へた御馳走を片端《かたつぱし》から犬に喰はれる様なもんで……ハハヽヽ。「恋ざめ」なんか別に悪い所が無いぢやないですか?』
『私はまだ読みません。』
『然うでしたか。』と言つて、信吾は未《ま》だ何か言はうと唇を動かしかけたが、それを罷《や》めてニヤ/\と薄笑《うすわらひ》を浮べた。月を負うて歩いてるので、無論それは女に見えなかつた。
 信吾は心に、怎《ど》ういふ連想からか、かの「恋ざめ」に書《かか》れてある事実《こと》――否《いな》あれを書く時の作者の心持、否、あれを読んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。
 五六歩歩くと、智恵子の柔かな手に、男の手の甲が、木《こ》の葉が落ちて触《さは》る程軽く触つた。寒いとも温かいともつかぬ、電光《いなづま》の様な感じが智恵子の脳を掠めて、体が自ら剛《かた》くなつた。二三歩すると又触つた。今度は少し強かつた。
 智恵子は其手を口の辺《あたり》へ持つて来て、軽《かろ》く故意《わざ》とらしからぬ咳をした。そして、礑《はた》と足を留めて背後《うしろ》を振返つた。清子と静子は肩を並べて、二人とも俯向《うつむ》いて十間も彼方《かなた》から来る。
 信吾は五六歩歩いて、思切悪気《おもひきりわるげ》に立留つた。そして矢張《やつぱり》振返つた。目は、淡く月光《つきかげ》を浴びた智恵子の横顔を見てゐる。コツ/\と杖《ステツキ》の尖《さき》で下駄の鼻を叩いた。
 其顔には、自《みづか》ら嘲る様な、或は又、対手を蔑視《みくび》つた様な笑が浮んでゐた。
 清子と静子は、霎時《しばし》は二人が立留つてゐるのも気付かぬ如くであつた。清子は初から物思はし気に俯向《うつむ》いて、そして、物も言はず、出来るだけ足を遅くしようとする。
『済まなかつたわね、清子さん、恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に遅くしちやつて。』
と、モ少し前《さき》に静子が言つた。
『否《いいえ》。』と一言答へて清子は寂しく笑つた。
『だつて、お宅《うち》ぢや心配してらつしやるわ、屹度。尤も慎次さんも被来《いらしつ》たんだから可《いい》けど……。』
『静子さん!』と、稍あつてから力を籠めて言つて、眤《じつ》と静子の手を握つた。
『恁《か》うして居たいわ、私。……』
『え?』
『恁うして! 何処までも、何処までも恁うして歩いて……。』
 静子は訳もなく胸が迫つて、握られた手を強く握り返した。二人は然し互ひに顔を見合さなかつた。何処までも恁うして歩く! 此美しい夢の様な語《ことば》は華かな加留多の後の、疲れて※[#「目+夢」の「夕」に代えて「目」、231−上−21]乎《ぼうつ》として、淡い月光《つきかげ》と柔かな靄《もや》に包まれて、底もなき甘い夜の静寂《しづけさ》の中に蕩《とろ》けさうになつた静子の心をして、訳もなき突差の同情を起さしめた。
『此《この》女《ひと》は兄に未練を有《も》つてる!』といふ考へが、瞬く後に静子の感情を制した。厭はしき怖れが胸に湧いた。
 然しそれも清子に対する同情を全くは消さなかつた。女は悲いものだ! と言ふ様な悲哀《かなしみ》が、静子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。
『怎《ど》うです。少し早く歩いては?』
と信吾が呼んだ。二人は驚いて顔を挙げた。

     (四)の九

 其夜、人々に別れて智恵子が宿に着いた時はモウ十時を過ぎてゐた。
 ガタビシする入口の戸を開けると、其処から見透《すとほ》しの台所の炉辺《ろばた》に、薄暗く火屋《ほや》の曇つた、紙笠の破れた三分心の吊洋燈《つりらんぷ》の下《もと》で、物思はし気に悄然《しよんぼり》と坐つて裁縫《しごと》をしてゐたお利代は、
『あ、お帰りで御座いますか。』
と急しく出迎へる。
『遅くなりまして。新坊さんもモウお寝《やす》み?』
『ハ、皆《みんな》寝《やす》みました。先生もお泊りかと思つたんですけれど……。』と、
 先に立つて智恵子の室《へや》に入つて、手早く机の上の洋燈を点《とも》す。臥床《とこ》が延べてあつた。
 お泊りかと思つたといふ言葉が、何故か智恵子の耳に不愉快に響いた。
 今迄お利代の坐つてゐた所には、長い手紙が拡げたなりに逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]《のたく》つてゐた。閃《ちら》とそれを見乍ら智恵子は室に入つて、
『マア臥床《おとこ》まで延べて下すつて、済まなかつたわ、小母《をば》さん。』
『何の、先生。』と笑顔を見せて、『面白う御座んしたでせう?』
『え……。』と少し曖昧に濁して、『私、疲れちやつたわ。』
と邪気《あどけ》なく言ひ乍ら、袴も脱がずに坐る。
『誰方が一番お上手でした?』
『皆様《みなさん》お上手よ。私なんか今迄余り加留多も取つた事がないもんですから、敗けて許《ばつか》り。』と嫣乎《につこり》する。ほつれた髪が頬に乱れてる所為《せゐ》か、其顔が常よりも艶に見えた。
 成程智恵子は遊戯《あそび》などに心を打込む様な性格《たち》でないと思つたので、お利代は感心した様に、
『然うでせうねえ!』と大きい眼をパチ/\する。
 それから二人は、一時間前に漸々《やうやう》寝入つたといふ老女《としより》の話などをしてゐたが、お利代は立つて行つて、今日函館から来たといふ手紙を持つて来た。そして、
『先生、怎《ど》うしたものでせうねえ?』と、愁し気な、極悪気《きまりわるげ》な顔をして話し出した。
 その手紙はお利代の先夫からである。以前《まへ》にも一度来た。返事を出さなかつたので再《また》来た。梅といふ子が生れた翌年《よくとし》不図《ふと》行方知れずなつてからモウ九年になる。その長々の間の詫を細々書いて、そして、自分は今函館の或商会の支店を預る位の身分になつたから、是非共過去の自分の罪を許して、一家を挙げて函館に来てくれと言つて来たのである。そして、自分の家出の後に二度目の夫のあつた事、それが死んだ事も聞知つてゐる。生れた新坊は矢張《やはり》自分の子と思つて育てたいと優くも言葉を添へた。――
 身を入れて其話を聞いてゐた智恵子は、謹慎《つつま》しいお利代の口振《くちぶり》の底に、此悲しき女《ひと》の心は今猶その先夫の梅次郎を慕つてゐる事を知つた。そして無理もないと思つた。
 無理もないと思ひつゝも、智恵子の心には思ひもかけぬ怪しき陰翳《かげ》がさした。智恵子は心から此哀れなる寡婦《をんな》に同情してゐた。そして自己《おのれ》に出来るだけの補助《たすけ》をする――人を救ふといふことは楽い事だ。今迄お利代を救ふものは自己《おのれ》一人であつた。然し今は然うでない!
 誰しも恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》場合に感ずる一種の不満を、智恵子も感ぜずに居《をら》れなかつた。が、すぐにそれを打消した。
『で御座いますからね。』とお利代は言葉をついだ。『マア何方《どつち》にした所で、祖母《おばあ》さんの病気を癒すのが一番で御座いますがね。……何と返事したものかと思ひまして。』
『然《さ》うね。』と云つて、智恵子は睫毛の長い眼を瞬《しばたた》いてゐたが、『忝《かたじけ》ないわ、私なんかに御相談して下すつて。……アノ小母さん、兎も角今のお家の事情を詳しく然《さう》言つて上げた方が可《よ》かなくつて? 被行《いらつしや》る方が可《いい》と、マア私だけは思ふわ。だけど怎《どう》せ今直ぐとはいかないんですから。』
『然うで御座いますねえ。』とお利代は俯向《うつむ》いて言つた。実は自分も然う思つてゐたので。

     (四)の十

『然うなすつた方が可《いい》わ、小母さん。』と、智恵子は俯向いたお利代の胸の辺《あたり》を眤《じつ》と睇《みつ》めた。
『然うで御座いますねえ。』と同じ事を繰返して、稍あつてお利代は思ひ余つた様な顔をあげたが、『怎《ど》うせ行くとしましても、それやマア祖母《おばあ》さんが奈何《どう》にか、アノ快癒《なほ》つてからの事で御座いますから、何時の事だか解りませんけれども、何だかアノ、生れ村を離れて北海道あたりまで行つて、此先|奈何《どう》なることかと思ふと……。』
『それやね、決めるまでにはマア、間違ひはないでせうけれど、先方《あちら》の事も詳しくナンして見てから……。』
『其処ンところはアノ、確乎《たしか》だらうと思ひますですが……今日もアノ、手紙の中に十円だけ入れて寄越して呉れましたから……。』
『おや然うでしたか。』と言つたが、智恵子はそれに就いての自分の感想を可成《なるべく》顔に現さぬ様に努めて、『兎も角お返事はお上げなすつた方が可いわ。矢張《やつぱし》梅ちやんや新坊さんの為には……。』と、智恵子はお利代の思つてゐる様な事を理を分けて説いてみた。説いてるうちに、何か恁《か》う、自分が今|善事《いいこと》をしてると云つた様な気持がして来た。『然うで御座いますねえ。』とお利代は大きい眼を瞬《しばたた》き乍ら、未だ明瞭《はつきり》と自分の心を言出しかねる様で、『恁《か》うして先生のお世話を頂いてると、私はモウ何日《いつ》までも此儘《このまんま》で居た方が、幾等《いくら》楽しいか知れませんけれども。』
『私だつて然う思ふわ、小母さん、真箇《ほんと》に……。』と言ひかけたが、何かしら不図胸の中に頭を擡げた思想《かんがへ》があつて言葉は途断れた。『神様の思召よ。人間《ひと》の勝手にはならないんですわね。』
『先生にしたところで、』と、お利代は智恵子の顔をマヂ/\と睇《みつ》め乍ら、『怎《どう》せ御結婚なさらなけやなりませんでせうし……。』
『ホヽヽ。』と智恵子は軽く笑つて、
『小母さん、私まだ考へても見た事が無くつてよ。自分の結婚なんか。』
 話題《はなし》はそれで逸《そ》れた。程なくしてお利代が出てゆくと、智恵子はやをら立つて袴を脱いで、丁寧にそれを畳ん
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