鳥影
石川啄木
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小妹《いもうと》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)世間|不知《しらず》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もと/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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(一)の一
小川静子は、兄の信吾が帰省するといふので、二人の小妹《いもうと》と下男の松蔵を伴れて、好摩《かうま》の停車場《ステーシヨン》まで迎ひに出た。もと/\、鋤《すき》一つ入れたことのない荒蕪地《あれち》の中に建てられた、小さい三等駅だから、乗降《のりおり》の客と言つても日に二十人が関の山、それも大抵は近村の百姓や小商人《こあきんど》許《ばか》りなのだが、今日は姉妹《きやうだい》の姿が人の目を牽いて、夏草の香《かをり》に埋もれた駅内に、常になく艶《なまめ》いてゐる。
小川家といへば、郡でも相応な資産家として、また、当主の信之《のぶゆき》が郡会議員になつてゐる所から、主《おも》なる有志家の一人として名が通つてゐる。信吾は其家《そこ》の総領で、今年大学の英文科を三年に進んだ。何と思つたか知らぬが、この暑中休暇は東京で暮す積《つもり》だと言つて来たのを、故家《うち》では、村で唯一人の大学生なる吾子の夏毎の帰省を、何よりの誇見《みえ》にて楽みにもしてゐる、世間|不知《しらず》の母が躍起になつて、自分の病気や静子の縁談を理由に、手酷く反対した。それで信吾は、格別の用があつたでもないのか、案外|穏《おとな》しく帰ることになつたのだ。
午前十一時何分かに着く筈の下り列車が、定刻を三十分も過ぎてるのに、未《ま》だ着かない。姉妹を初め、三四人の乗客が皆もうプラツトフオームに出てゐて、※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はる》か南の方《かた》の森の上に煙の見えるのを、今か今かと待つてゐる。二人の小妹《いもうと》は、裾短かな海老茶の袴、下髪《おさげ》に同じ朱鷺色《ときいろ》のリボンを結んで、訳もない事に笑ひ興じて、追ひつ追はれつする。それを羨まし気に見ながら、同年輩《おないどし》の、見悄《みすぼ》らしい装《なり》をした、洗晒しの白手拭を冠《かぶ》つた小娘が、大時計の下に腰掛けてゐる、目のシヨボ/\した婆様《ばあさん》の膝に凭れてゐた。
駅員が二三人、駅夫室の入口に倚懸《よりかか》つたり、蹲んだりして、時々|此方《こつち》を見ながら、何か小声に語り合つては、無遠慮に哄《どつ》と笑ふ。静子はそれを避ける様に、ズツと端の方の腰掛に腰を掛けた。銘仙|矢絣《やがすり》の単衣《ひとへ》に、白茶の繻珍《しゆちん》の帯も配色《うつり》がよく、生際《はえぎは》の美しい髪を油気なしのエス巻に結つて、幅広の鼠《ねず》のリボンを生温かい風が煽る。化粧《けは》つてはゐないが、さらでだに七難隠す色白に、長い睫毛《まつげ》と格好のよい鼻、よく整つた顔容《かほだて》で、二十二といふ齢よりは、誰《た》が目にも二つか三《み》つは若い。それでゐて、何処か恁《か》う落着いた、と言ふよりは寧ろ、沈んだ処のある女だ。
六月|下旬《すゑ》の日射《ひざし》が、もう正午《ひる》に近い。山国《さんごく》の空は秋の如く澄んで、姫神山の右の肩に、綿の様な白雲が一団《ひとかたまり》、彫出された様に浮んでゐる。燃ゆる様な好摩《かうま》が原の夏草の中を、驀地《ましぐら》に走つた二条の鉄軌《レール》は、車の軋つた痕に烈しく日光を反射して、それに疲れた眼が、※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はる》か彼方《むかう》に快い蔭をつくつた、白樺の木立の中に、蕩々《とろとろ》と融けて行きさうだ。
静子は眼を細くして、恍然《うつとり》と兄の信吾の事を考へてゐた。去年の夏は、休暇がまだ二十日も余つてる時に、信吾は急に言出して東京に発《た》つた。それは静子の学校仲間であつた平沢清子が、医師《いしや》の加藤と結婚する前日であつた。清子と信吾が、余程|以前《まへ》から思ひ合つてゐた事は、静子だけがよく知つてゐる。
今度帰るまいとしたのも、或は其《その》、己に背いた清子と再び逢ふまいとしたのではなからうかと、静子は女心に考へてゐた。それにしても帰つて来るといふのは嬉しい、恁《か》う思返して呉れたのは、細々《こまごま》と訴へてやつた自分の手紙を読んだ為だ、兄は自分を援けに帰るのだと許《ばか》り思つてゐる。静子は、目下《いま》持上つてゐる縁談が、種々《いろいろ》の事情があつて両親始め祖父《おぢいさん》までが折角勧めるけれど、自分では奈何《どう》しても嫁《ゆ》く気になれない、此心をよく諒察《くみと》つて、好《うま》く其間に斡旋《あつせん》してくれるのは、信吾の外にないと信じてゐるのだ。
『来た、来た。』と、背の低い駅夫が叫んだので、フオームは俄《には》かに色めいた。も一人の髯面《ひげづら》の駅夫は、中に人のゐない改札口へ行つて、『来ましたよウ。』と怒鳴つた。濃い煙が、眩しい野末の青葉の上に見える。
(一)の二
凄じい地響をさせて突進して来た列車が停ると、信吾は手づから二等室の扉《ドア》を排《あ》けて、身軽に降り立つた。乗降の客や駅員が、慌しく四辺《あたり》を駆ける。※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]笛が澄んだ空気を振はして、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車は直ぐ発つた。
荷札《チエツキ》扱ひにして来た、重さうな旅行鞄を、信吾が手伝つて、頭の禿げた松蔵に背負《しよは》してる間に、静子は熟々《つくづく》其容子を見てゐた。ネルの単衣に涼しさうな生絹《きぎぬ》の兵子帯《へこおび》、紺キヤラコの夏足袋から、細い柾目の下駄まで、去年の信吾とは大分違つてゐる。中肉の、背は亭乎《すらり》として高く、帽子には態《わざ》と記章も附けてないから、打見には誰にも学生と思へない。何処か厭味のある、ニヤケた顔ではあるが、母が妹の静子が聞いてさへ可笑《をかし》い位自慢にしてるだけあつて、男には惜しい程|肌理《きめ》が濃《こまか》く、色が白い。秀でた鼻の下には、短い髯を立てゝゐた。それが怎《どう》やら老《ふ》けて見える。老けて見えると同時に、妹の目からは、今迄の馴々しさが顔から消え失せた様にも思はれる。軽い失望の影が静子の心を掠めた。
『何を其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に見てるんだ、静さん?』
『ホホ、少し老《ふ》けて見えるわね。』と静子は嫣乎《につこり》する。
『あゝ之か?』と短い髭を態《わざ》とらしく捻り上げて、『見落されるかと思つて心配して来たんだ。ハハハ。』
『ハハハ。』と松蔵も声を合せて、背《せな》の鞄を揺《ゆす》り上げた。
『怎だ、重いだらう?』
『何有《なあに》、大丈夫でごあんす。年は老《と》つても、』と復《また》揺り上げて、『さあ、松蔵が先に立ちますべ。』
連立つて停車場《ステーシヨン》を出た。静子は、際どくも清子の事を思浮べて、杖形《すてつきがた》の洋傘《かさ》を突いた信吾の姿が、吾兄ながら立派に見える、高が田舎の開業医づれの妻となつた彼《あ》の女《ひと》が、今度この兄に逢つたなら、甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》気がするだらうなどと考へてゐた。
二町許りも構内の木柵に添うて行くと、信号柱《シグナル》の下で踏切になる。小川家へ行くには、此処から線路伝ひに南へ辿つて、松川の鉄橋を渡るのが一番の近道だ。二人の小妹《いもうと》は、早く帰つて阿母《おつか》さんに知らせると言つて、足調《あしなみ》揃へてズン/\先に行く。松蔵は大跨にその後に跟《つ》いた。
信吾と静子は、相並んで線路の両側を歩いた。梅雨後《つゆあがり》の勢のよい青草が熱蒸《いき》れて、真面《まとも》に照りつける日射が、深張の女傘《かさ》の投影《かげ》を、鮮かに地《つち》に印《しる》した。静子は、逢つたら先づ話して置かうと思つてゐたことも忘れて、この夏は賑やかに楽く暮せると思ふと、もう怡々《いそいそ》した心地になつた。
『皆が折角待つてることよ。』
『然《さ》うか。実は此夏少し勉強しようと思つたんだがね。』
『勉強は家《うち》でだつて出来ない事なくつてよ。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》にお邪魔しないわ。』
『それも然うだが、小供が大勢ゐるからな。』
『だつて阿母《おつか》さんが那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に待つてますもの。』
『その阿母さんの病気ツてな甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》だい? タント悪いんぢやないだらう?』
『えゝ、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に悪いといふ程ぢやないんですけど……。』
『臥《ね》てゐるか?』
『臥たり起きたり。例《いつも》のリウマチに、胃が少し悪いんですつて。』
『胃の悪いのは喰過ぎだ。朝《あさ》ツから煙草許り喫《の》んでゐて、躰屈《たいくつ》まぎれに種々《いろん》な物を間食するから悪いんだよ。』
『でもないでせうが、一体阿母さんは丈夫ぢやないのね。』
『若い時の応報《むくい》さ。』
『まあ!』と目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。母のお柳《りう》は昔盛岡で名を売つた芸妓《げいしや》であつたのを、父信之が学生時代に買馴染んで、其為に退校にまでなり、家中《うちぢゆう》反対するのも諾《き》かずに無理に落籍さしたのだとは、まだ女学校にゐる頃叔母から聞かされて、訳もなく泣いた事があつたが、今迄遂ぞ恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》言葉を兄の口から聞いた事がない。静子は、宛然《さながら》自分の秘密でも言現《いひあらは》された様な気がした。
(一)の三
信吾も少し言過ぎたと思つたかして直ぐに、
『だが何か? 服薬はしてるだらうね?』
『ええ。……加藤さんが毎日来て診て下さるのよ。』
『然うか。』と言つて、また態《わざ》とらしく、『然うか、加藤といふ医師《いしや》があつたんだな。』
静子はチラリと兄の顔を見た。
『医師が毎日来る様ぢや、余り軽いんでもないんだね?』
『然うぢやないのよ。加藤さんは交際家なんですもの。』
『フム、交際家か!』と短い髯を捻つて、
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]風ぢや相応に繁昌《はや》つてるんだらう?』
『ええ、宅の方へ廻診に来る時は、大抵自転車よ。でなけや馬に騎《の》つて来るわ。』
『ホウ、景気をつけたもんだな。そして何か、モウ小児《こども》が生れたのか?』
『……まだよ。』と低い声で答へて目を落した。
『それぢや清子さんも暇があつて可《い》いんだらう。』
『ええ。』
『女は小児を有《も》つと、モウ最後だからな。』
静子は妙にトチツて、其儘口を噤《つぐ》んで了つた。人は長く別れてゐると、その別れてゐた月日の事は勘定に入れないで、お互ひにまだ別れなかつた時の事を基礎《どだい》に想像する。静子は、清子が加藤と結婚した事について、少からず兄に同情してゐる。今度帰つて来て、毎日来る加藤と顔を合せるのも、兄は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に不愉快な思ひをするだらう、などとまで狭い女心に心配もしてゐた。そして、何かしらそれに関した事を言出されるかと、宛然《さながら》、自分の
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