訊いた所で仕方がない!」と思返した。
 と、門口に何やら声高に喋る声が聞えた。洗濯の音が止んだ。『六銭。』といふ言葉だけは智恵子の耳にも入つた。

     (四)の二

 すると、お利代の下駄を脱ぐ音がして、軽《かろ》い跫音《あしおと》が次の間に入つた。
 何やら探す様な気勢《けはひ》がしてゐたが、鏗《がちや》りと銅貨の相触れる響《ひびき》。――霎時《しばし》の間何の物音もしない、と老女《としより》の枕頭《まくらもと》の障子が静かに開いて、窶《やつ》れたお利代が顔を出した。
『先生、何とも……。』と小声に遠慮し乍ら入つて来て、
『アノ、これが来まして……。』と言悪気《いひにくげ》に膝をつく。
『何です?』と言つて、見ると、それは厚い一封の手紙、(浜野お利代殿)と筆太に書かれて、不足税の印が捺してある。
『細かいのが御座んしたら、アノ、一寸二銭だけ足りませんから……。』
『あ、然《さ》う?』と皆まで言はせず軽《かろ》く答へて、智恵子はそれを出してやる。
 お利代は極悪気《きまりわるげ》にして出て行つた。
 智恵子は不図針の手を留めて、
「小供の衣服《きもの》よりは、お銭《あし》で上げた方が好かつたか知ら!」と考へた。そして直ぐに、「否《いいや》、まだ有るもの!」と、今しも机の上に置いた財布《かみいれ》に目を遣つた。幾何《いくら》かの持越と先月分の俸給十三円、その内から下宿料や紙筆油などの雑用の払ひを済まし、今日反物を買つて来て、まだ五円許りは残つてるのである。
 お利代は直ぐ引返して来て、櫛巻にした頭に小指を入れて掻き乍ら、
『真箇《ほんと》に何時も/\先生に許り御迷惑をかけて。』と言つて、潤《うる》みを有《も》つた大きい眼を気毒相に瞬《しばたた》く。左の手にはまだ封も切らぬ手紙を持つてゐた。
『まあ其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》こと!』と事も無げに言つたが、智恵子は心の中で、此《この》女《ひと》にはモウ一銭も無いのだと考へた。
『今夜|那《あ》の衣服《きもの》を裁縫《こしら》へて了へば、明日|幾何《いくら》か取れるので御座んすけれど……唯《たつた》四銭しか無かつたもんですから。』
『小母《をば》さん!』と智恵子は口早に圧付《おしつ》ける様に言つた。そして優しい調子で、
『私小母さんの家《うち》の人よ。ぢやなくつて?』
 初めて聞いた言葉ではないが、お利代は大きい眼を瞠《みはつ》て眤《じつ》と智恵子の顔を見た。何と答へて可《いい》か解らないのだ。
 母は早く死んだ。父は家産を倒して行方が知れぬ。先夫は良い人であつたが、梅といふ女児《こども》を残して之も行方知れず(今は函館にゐるが)。二度目の夫は日露の役に従つて帰らずなつた。何か軍律に背いた事があつて、死刑にされたのだといふ。七十を越した祖母一人に小供二人、己《おの》が手一つの仕立物では細い煙も立て難くて、一昨年《をととし》から女教師を泊めた。去年代つた智恵子にも居て貰ふことにした。この春祖母が病付いてからは、それでも足らぬ。足らぬ所は何処から出る? 智恵子の懐から!
 言つて見れば赤の他人だ。が、智恵子の親切は肉身《しんみ》の姉妹《きやうだい》も及ばぬとお利代は思つてゐる。美しくつて、優しくつて、確固《しつかり》した気立《きだて》、温かい情《こころ》……かくまで自分に親くしてくれる人が、またと此世にあらうかと、悲しきお利代は夜更けて生活《なりはひ》の為の裁縫をし乍らも、思はず智恵子の室に向いて手を合せる事がある。智恵子を有難いと思ふ心から、智恵子の信ずる神様をも有難いものに思つた。
『アノ……小母さん。』と智恵子は稍|躊躇《ためら》ひ乍ら、机の上の財布《かみいれ》を取つて其中から紙幣《さつ》を一枚、二枚、三枚……若しや軽蔑したと思はれはせぬかと、直ぐにも出しかねて右の手に握つたが、
『アノ、小母さん、私小母さんの家の人よ。ね。だからアノ、毎日我儘許りしてるんですから悪く思はないで頂戴よ。ね。私小母さんを姉さんと思つてるんですから。』
『それはモウ……。』と言つて、お利代は目を落して畳に片手をついた。
『だからアノ、悪く思はれる様だと私却て済まないことよ。ね。これはホンのお小遣よ。祖母《おばあ》さんにも何か……』
と言ひ乍ら握つたものを出すと、俯いたお利代の膝に龍鍾《はらはら》と霰《あられ》の様な涙が落ちる。と見ると智恵子はグツと胸が迫つた。
『小母さん!』と、出した其手で矢庭に畳に突いたお利代の手を握つて、
『神よ!』
 と心に呼んだ。『願くば御恵《みめぐみ》を垂れ給へ!』瞑《と》ぢた其眼の長い睫毛を伝つて、美しい露が溢れた。

     (四)の三

『あゝゝ。』といふ力無い欠呻《あくび》が次の間から聞えて、『お利代、お利代。』と、嗄《しはが》れた声で呼び、老女《としより》が眼を覚まして、寝返りでも為《し》たいのであらう。
 智恵子はハツとした様に手を引いた。お利代は涙に濡れた顔を挙げて、
『ハ、只今。』
と答へたが、其顔に言ふ許りなき感謝の意《こころ》を湛《たた》へて、『一寸。』と智恵子に会釈して立つ。急《いそが》しく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。
 其後姿を見送つた目を、其処に置いて行つた手紙の上に移して、智恵子は眤《じつ》と呼吸を凝《こら》した。神から授つた義務を遂《は》たした様な満足の情が胸に溢れた。そして、「私に出来るだけは是非して上げねばならぬ!」と、自分に命ずる様に心に誓つた。
『あゝゝ、よく寝た。モウ夜が明けたのかい、お利代?』
と老女《としより》の声が聞える。
『ホホヽヽ、今|午後《ひるすぎ》の三時頃ですよ祖母《おばあ》さん。御気分は?』
『些《ちつ》とも平生《ふだん》と変らないよ。ナニか、先生はモウお出掛か?』
『否《いいえ》、今日は土曜日ですから先刻《さつき》にお帰りになりましたよ。そしてね祖母《おばあ》さん、アノ、梅と新坊に単衣を買つて来て下すつて、今縫つて下すつてるの。』
『呀《おや》、然《さ》うかい。それぢやお前、何か御返礼に上げなくちや不可《いけ》ないよ。』
『まあ祖母さんは! 何時でも昔の様な気で……。』
『ホヽヽ。然うだつたかい。だがねお利代、お前よく気を付けてね、先生を大事にして上げなけれや不可《いけ》ないよ。今度の先生の様に良い人はお前、何処に行つたつて有るものぢやないよ。』と小供にでも訓《をし》へる様に言ふ。
 智恵子はそれを聞くと、又しても眼の底に涙の鍾《あつま》るを覚えた。
『ア痛、ア痛、寝返《ねがへり》の時に限つてお前は邪慳だよ。』と、今度はお利代を叱つてゐる。智恵子は気が付いた様に、また針を動かし出した。
 五分間許り経つてお利代が再び入つて来た時は、何を泣いてか其頬に新しい涙の痕が光つてゐた。
『御気分が宜《い》い様ね?』
『ハ。モウ夜が明けたかなんて恍《とぼ》けて……。』と少し笑つて、『皆《みんな》先生のお蔭で御座います。』
『マア小母さんは!』と同情深《おもひやりぶか》い眼を上げて、『小母さんは何だわね、私を家《うち》の人の様にはして下さらないのね?』
『ですけれど先生、今もアノお祖母さんが、先生の様な人は何処に行つても無いと申しまして……。』と、流石は世慣れた齢だけに厚く礼を述べる。
『辛いわ、私!』と智恵子は言つた。
『何も私なんかに然う被仰《おつしや》る事はなくつてよ、小母さんの様に立派な心掛を有つてる人は、神様が助けて下さるわ。』
『真箇《ほんと》に先生、生きた神様つたら先生の様な人かと思ひまして……。』
『マア!』と心から驚いた様な声を出して、智恵子は清《すず》しい眼を瞠《みは》つた。『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事被仰るもんぢやないわ。』
『ハ。』と言つてお利代は俯いた。今の言葉を若しやお諂辞《せじ》とでも取られたかと思つたのだらう。手は無意識に先刻《さつき》の手紙に行く。
『アラ小母さん、お手紙御覧なさいよ。何処から?』
『ハ?』と目を上げて、『函館からですの。……アノ、梅の父から。』と心持|極悪気《きまりわるげ》に言ふ。
『マア然う?』と軽く言つたが、悪い事を訊いたと心で悔んで。
『アノ先月……十日許り前にも来たのを、返事を遣らなかつたもんですから……』
と言つてる時、門口に人の気勢《けはひ》。
『日向さんは?』
『静子さんですよ。』と囁いてお利代は急いで立つ。
『小母さん、これ。』と智恵子は先刻の紙幣《さつ》を指さしたのでお利代は『それでは!』と受取つて室を出た。

     (四)の四

 挨拶が済むと、静子は直ぐ、智恵子が片付けかけた裁縫物《したてもの》に目をつけて、
『まあ好《い》い柄ね。』
『でも無いわ。』
『貴女《あんた》ンの?』
『正可《まさか》! 這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》小いの着られやしないわ。』と、笑ひ乍ら縫掛のそれを抓《つま》んで見せる。
『梅ちやんの?』と少し声を潜めた。
『え、新坊さんと二人《ふたあり》の。』
『然う?』と言つて、静子は思ひ有気《ありげ》な眼付をした。無論、智恵子が買つて呉れたものと心に察したので。
 智恵子は身の周囲《まはり》を取片付けると、改めて嬉気《うれしげ》な顔をして、
『よく被来《いらし》つたわね!』
『貴女は些《ちつ》とも被来つて下さらないのね?』
『済まなかつたわ。』と何気なく言つたが、一寸目の遣場に困つた。そして、微笑んでる様な静子の目と見合せると色には出なかつたが、ポツと顔の赧むを覚えた。静子清子の外には友も無い身の、(富江とは同僚乍ら余り親くしなかつた。)小川家にも一週に一度は必ず訪《たづ》ねる習慣《ならはし》であつたのに、信吾が帰つてからは、何といふ事なしに訪ねようとしなかつた。
『今日お多忙《いそが》しくつて?』
『否《いいえ》、土曜日ですもの、緩《ゆつく》りしてらしつても可《い》いわね?』
『可けないの。今日は私、お使者《つかひ》よ。』
『でもマア可いわ。』
『アラ、貴女のお迎ひに来たのよ。今夜アノ、宅《うち》で加留多会を行《や》りますから母が何卒《どうぞ》ツて。……被来《いらつしや》るわね?』
『加留多、私取れなくつてよ。』
『マア、貴女御謙遜ね?』
『真箇《ほんと》よ。随分|久《しばら》く取らないんですもの。』
『可いわ。私だつて下手ですもの。ね、被来るわね?』と静子は姉にでも甘へる様な調子。
『然うね?』と智恵子は、心では行く事に決めてゐ乍ら、余り気の乗らぬ様な口を利いて、『誰々? 集るのは?』
『十人|許《ばかし》よ。』
『随分多勢ね?』
『だつて、宅《うち》許りでも選手《チヤンピオン》が三人ゐるんですもの。』
『オヤ、その一人は?』と智恵子は調戯《からか》ふ様に目で笑ふ。
『此処に。』と頤《おとがひ》で我が胸を指して、『下手組の大将よ。』と無邪気に笑つた。
 智恵子は、信吾が帰つてからの静子の、常になく生々《いきいき》と噪《はしや》いでゐることを感じた。そして、それが何かしら物足らぬ様な情緒《こころもち》を起させた。自分にも兄がある。然し、その兄と自分の間に、何の情愛がある?
 智恵子は我知らず気が進んだ。『何時から? 静子さん。』
『今直ぐ、何物《なんに》も無いんですけど晩餐《ごはん》を差上げてから始めるんですつて。私これから、清子さんと神山さんをお誘ひして行かなけやならないの、一緒に行つて下すつて? 済まないけど。』
『ハ。貴女となら何処までゞも。』と、笑つた。
 軈《やが》て智恵子は、『それでは一寸。』と会釈して、『失礼ですわねえ。』と言ひ乍ら、室《へや》の隅で着換に懸つたが、何を思つてか、取出した衣服《きもの》は其儘に、着てゐた紺絣の平常着《ふだんぎ》へ、袴だけ穿いた。
 其後姿を見上げてゐた静子は、思出す事でもあるらしく笑《わらひ》を含んでゐたが、少し小声で、『アノ山内様ね。』
『え。』と此方《こつち》へ向く。
『ア
前へ 次へ
全22ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング