《ふだんぎ》に白手拭の頬冠《ほほかむり》をしたのもある。十歳《とを》位の小供から、酔の紛れの腰の曲つた老婆様《おばあさん》に至るまで、夜の更け手足の疲れるも知らで踊る。人垣を作つた見物は何時しか少くなつた。――何れも皆踊の輪に加つたので――二箇所《ふたところ》の篝火《かがり》は赤々と燃えに燃える。
月は高く上つた。
強い太鼓の響き、調子揃つた足擦《あしずれ》の音、華やかな、古風な、老も若きも恋の歌を歌つてゐる此|境地《さかひ》から、不図目を上げて其静かな月を仰いだ心境《ここち》は、何人も生涯に幾度《いくたび》となく思浮べて、飽かずも其甘い悲哀に酔はうとするところであらう。――殊にも此夜の智恵子は、思ふ人と共にゐる楽しみと、体内《みうち》の病苦《くるしみ》と、唆る様な素朴な烈しい恋の歌と、そして、何がなき頼りなさに心が乱れて、その沈んで行く気持を強い太鼓の響に掻乱される様に感じながら、踊りには左程の興もなく、心持眉を顰《ひそ》めては、眤と月を仰いでゐた。
怒りと嘲笑《あざけり》を浮べた信吾の顔が、時々胸に浮んだ。智恵子は、今日その信吾の厚かましくも言出でた恋を、小気味よく拒絶《ことわ》つて了つたのだ。
立つたり蹲んだりしてる間《うち》に、何がなしに腹部《はら》が脹つて来て、一二度軽く嘔吐を催すやうな気分にもなつた。早く帰つて寝よう、と幾度《いくたび》か思つた。が、この歓楽の境地《さかひ》に――否、静子と共に吉野を一人置いて行くことが、矢張快くなかつた。居たとて別に話――智恵子は今日の出来事を詳しく話したかつた――をする機会もないが、矢張一寸でも長く男と一緒にゐたかつた。
軈《やが》て、下腹部《したはら》の底が少し宛《づつ》痺れる様に痛み出した。それが段々烈しくなつて来る。
隙《すき》を見て、智恵子は思ひ切つてツト男の傍《そば》へ寄つた。
『私、お先に帰ります。』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に悪くなりましたか?』
『少許《すこし》……少許ですけれどもお腹がまた痛んでくる様ですから。』
『可《い》けませんねえ! 怎うです加藤|様《さん》に被行《いらし》つたら?』
『否《いいえ》、ホンの少許《すこし》ですから……アノ、明日でも被来《いらし》つて下さいませんか? 何卒《どうぞ》。』
『行きます、是非。』と言つて、吉野は強く女の手を握つた。女も握り返した。
『好い月ですわねえ!』
智恵子は猶去り難気《がたげ》に恁《か》う言つた。そして、皆にも挨拶して一人宿の方へ帰つてゆく。月を浴びた其後姿を、吉野は少し群から離れた所に蹲んで、遠く見送つてゐた。
智恵子は痛む腹に力を入れて、堅く歯を喰絞りながら、幾回《いくたび》か背後《うしろ》を振返つた。町の賑ひは踊の場所に集つて、十間離れたらモウ人一人ゐない。霜の置いたかと許り明るい月光に、所々|樺火《かばび》の趾《あと》が黒く残つて、軒々の提灯や行燈は半ば消えた。
天心の月は、智恵子の影を短く地《つち》に印《しる》した。太鼓の響と何十人の唄声とは、その月までも届くかと、風なき空に漂うてゆく。――華やかな舞楽の場《には》から唯一人帰る智恵子は、急に己《おの》が宿が可厭《いや》になつた。
と言つて、足は矢張宿の方へ動く。送つて来てくれぬ男を怨めしくも思つた。アノ人が東京へ帰ると、屹度今夜のことを[#「今夜のことを」は底本では「今夜ののことを」]手紙に書いて寄越すだらうとも思つた。そして、二人間に取交された約束が、唯一生忘れまいといふ事だけなのを思つて、智恵子は今夜といふ今夜、初めて切実に、それだけでは物足らぬことを感じた。智恵子も女である。力強き男の腕に抱《いだ》かれたら、あはれ、腹の痛みも忘れようものを!
二町|許《ばか》り来ると、智恵子は俄かに足を早めた。不図、怺《こら》へきれぬ程に便気を催して来たので。
(十一)の六
程なくして吉野や静子等も帰路《かへりぢ》に就いた。信吾には遂に逢はなかつた。吉野は智恵子の病気の気に懸らぬではないが、寄つて見る訳にも行かぬ。
それから小一時間も経つた。
富江の宿の裏口が開《あ》いて、月影明るい中へヒヨクリと信吾が出た。続いて富江も出た。
『好《い》い月!』
恁う富江が言つた。信吾は自《みづか》ら嘲る様な笑ひを浮べて、些《ちよつ》と空を仰いだが別に興を催した風もない。ハヽヽと軽く笑つた。
太鼓の響と唄の声が聞える、四辺《あたり》は森として、何処やらで馬の強く立髪を振る音。
『一寸、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に済まさなくたつて可いわよ。』
『疲れた!』と、信吾は低く呟く様に言つた。
『マ酷い! 散々人を虐めて置いて。』
『ハヽヽ。ぢや左様なら!』
『一寸々々《ちよいとちよいと》、真箇《ほんと》よ明日の晩も。』
『ハヽヽ。』と男は再《また》妙に笑つてスタ/\と歩き出す。富江は家《うち》へ入つた。
人なき裏路を自棄《やけ》に急ぎながら、信吾は浅猿《あさま》しき自嘲の念を制することが出来なかつた。少許《すこし》下向いた其顔は不愉快に堪へぬと言つた様に曇つた。
『莫迦!』
と声を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。
信吾の心が生れてから今日一日ほど動揺した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智恵子を訪《と》ふと、初めは盛んに気焔を吐いた。現代の学者を糞味噌に罵倒し尽し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]話の機会《きつかけ》からか、智恵子を口説いてみた。彼は有らゆる美しい言葉を並べた。女は眤《じつ》と俯向いてゐた。
最後に信吾は言つた。
『智恵子さん、貴女は哀れな僕の述懐を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』
『…………』
『智恵子さん!』と、情が迫つたといふ様に声を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智恵子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても可いと許して頂けば可いんです。それだけです。それさへ許して頂けば、僕の生涯が明るくなります……』
『小川|様《さん》!』と、女は佶《きつ》と顔をあげた。其顔は眉毛一本動かなかつた。『私の様なもののことを然う言つて下さるのはそれや有難う御座いますけれど。』
『ハ※[#疑問符感嘆符、1−8−77]』
『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない様にお願ひします。』
信吾は眤と腕を組んだ。
『失礼な事を申す様ですが……』
『ウヽ……何故でせう?』
『……別に理由はありませんけれど……。』
『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、サモ落胆《がつかり》した様に言つて、『然しです、何か理由が、然《さ》う被仰《おつしや》るからには有らうぢやありませんか? それを話して頂く訳にいかないんですか?』
『…………』
『智恵子さん! 僕がこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお断りになるとは余りです。余りに侮辱です。』
『ですけれど……』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》らです、』と、信吾は今迄の事は忘れて新らしい仇《かたき》の前にでも出た様に言つた。其眼は物凄く輝いた。『僕は唯一つ聞かして頂きたい事があります。智恵子さん、怎《ど》うでせう、聞かして下さいますか?』
『……私の知つてをります事ならそれは……』
『無論御存じの事です。』と信吾は肩を聳した。『話は全然《まるで》別の事です。僕は僕の一切を犠牲にして、友人たる貴女と吉野の幸福を祝ひます。』
智恵子は胸を刺されたやうにビクリとした。然し一|寸《すん》も動かなかつた。顔色も変へなかつた。
『怎うです、』と男は更に突込んだ。『貴女は僕の祝ひを、享けて下さいますか、それを聞かして下さい。』
『…………』
『僕は今言つた事を凡て取消して、友人としての真心からお二人の為に祝ひます。怎うです、享けて下さいますか?』
『…………』
『何卒享けて下さい!』と信吾は毒々しく迫る。
智恵子の顔はクワツと許り紅くなつた。そして、
『有難う御座います。』
と、明瞭《はつきり》言放つた。
(十一)の七
智恵子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何か知ら弱い者を虐めてやつた時の様な思ひに乱れてゐた。恁《か》うなると彼は、今日自分の遣つた事は、予《あらか》じめ企んで遣つたので、それが巧く思ふ壺に嵌《はま》つて智恵子に自白さしたかの様に考へる。我と我を軽蔑《さげす》まうとする心を、強ひて其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》風に考へて抑へて見た。
信吾は、成べく平静な態度《ふり》をして、その足で直ぐ加藤医院を訪ね、学校を訪ねた。彼は夕方までに帰つて、吉野や妹共と一緒に踊見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。
其時の信吾は、平常《ふだん》よりも余程《よつぽど》機嫌が可い様に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる様な気がして来て、心にも無い事を一口言へば一口言ふだけ、胸が苛立つて来る。高い笑声《わらひごゑ》を残して、彼は遂に学校から飛び出した。
モウ日暮近い頃であつた。
自嘲の念は烈しく頭脳《あたま》を乱した。何故《なぜ》那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》事《こと》を言つたらう? 莫迦な、モウ智恵子の顔を見ることが出来なくなつた! と彼は悔いた。何故モツと早く――吉野の来ないうちに言はなかつたらう※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
『畜生奴《ちくしやうめ》! 到頭白状させてやつた。』恁う彼は口に出して言つて見た。が、矢張彼は女から享けた拒絶の恥辱《はぢ》を、全く打消すことが出来なかつた。よし、彼女《あのをんな》を免職させる様にしてやらうか! 否《いや》、それよりは何《ど》うかして吉野を追払はう!
彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋《ふなたばし》まで、国道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら帰るともなく帰つて来た。が、彼は人に顔を見られたくない。町端れから再《また》引返して、今度は旧国道を門前寺村の方へ辿つた。
月が上つた。
途断《とぎれ》々々に、町へ来る近村の男女に会つた。彼は然しそれに気がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思出してゐた。
「何有《なあに》! 知らん顔をしてゐればそれで済む。豈且《まさか》智恵子が言ひは為まい。」と彼は少し落着いて来た。
「然し、」と彼は復《また》しても吉野が憎くなる。「アノ野郎|奴《め》、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがつた!」
信吾の憤《いか》りは再《また》発した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思出して、遂に、頭髪《かみ》を掻※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《かきむし》りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステツキを強く揮つて、自暴《やけ》にヒユウと空気を切つた。
『信吾|様《さん》!』
と女の声。彼は驚いた様に顔を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近いて来る。草履を穿いてるのか足音がしない。
『信吾|様《さん》!』と富江は再《また》呼んだ。
『あ、神山|様《さん》でしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。
『マア、何処へ被行《いらつしや》るの?』
答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴《やけ》に体を向直した。
『ハハヽヽ。何処へ行つたんです貴女こそ?』
『生徒の家《うち》へ招待《よば》れて、門前寺の…………一人で散歩するなんて気が利かないぢやありませんか、貴方は!』
『貴女だつて一人ぢやないか!』
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