忘れる事は出来ぬであらう。
 松原からの縁談は、その初め、当の対手の政治に対する嫌悪の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な思慮《かんがへ》やら或る侮辱の感やらで、静子は兄に手頼《たよ》つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの静子は、今迄の理由の外に、モ一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出来た。
 恰度橋の上に来た時である。
『此処で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』
 恁《か》う静子は慣々《なれなれ》しく言つてみた。月は其夢みる様な顔を照した。
『然《さ》うでしたねえ!』
と吉野は答へた。そして、何か思出した様に少許《すこし》俯向《うつむ》いて黙つた。
 その態度《やうす》は、屹度|那《あ》の時の事を詳しく思出してるのだと静子に思はせた。静子も強ひて其時の事を思出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき満足を与へた。
 が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。渠《かれ》は、信吾が屹度智恵子の家《うち》にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに帰らなかつた申訳をするだらうと想像してゐた。
 町に入ると、常ならぬ花やかな光景《けしき》が、土地慣れぬ吉野の目に珍しく映つた。家々の軒には、怪気《あやしげ》な画や「豊年万作」などの字を書いた古風の行燈《あんどん》や提灯が掲げてある。街路《みち》の両側には、門々に今を盛りと樺火《かばび》が焚いてある。其赤い火影《ほかげ》が、一筋町の賑ひを楽しく照して、晴着を飾つた徂来《ゆきき》の人の顔が何れも/\酔つてる様に見える。
 町は悦気《たのしげ》な密語《さざめき》に充ちた。寄太鼓《よせだいこ》の音は人々の心を誘ふ。其処此処に新しい下駄を穿いた小児《こども》らが集つて、樺火で煎餅などを焼いてゐる。火が爆《は》ぜて火花が街路《みち》に散る。年長《としかさ》な小児らは勢ひ込んで其|列《なら》んだ火の上を跳ねてゆく。恰度|夕餉《ゆふげ》の済んだところ。赤い着物を着た女児共《をんなのこども》は、打連れて太鼓の音を的《あて》にさゞめいて行く。
 町も端れの智恵子の宿の前には、消えかかつた樺火を取巻いて四五人の小児等がゐた。
『梅ちやん! 梅ちやん!』
と、小妹共《いもうとども》が先づ駆け寄る。其《その》後《うしろ》から静子は、
『梅ちやん、先生は?』
と優しく言ひながら近づいた。
 静子は直ぐ気が付いた。梅ちやんの着てゐる紺絣《こんがすり》の単衣《ひとへ》、それは嘗て智恵子の平常着《ふだんぎ》であつた!
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あな我が君のなつかしさよ、
   まみゆる日ぞまたるる。
君は谷の百合、峰のさくら、
   うつし世にたぐひもなし。
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 家《うち》の中からは幽かに讃美歌の声が洩れる。信吾は居ない! 恁う吉野は思つた。
『先生! 先生!』と、梅ちやんは門口から呼ぶ。

     (十一)の三

 智恵子に訊くと、信吾は一時間許り前に帰つたといふ。
『マア何処へ行つたんでせうねえ。夕方までに帰つて、私達と一緒に再《また》出かける筈でしたのよ。これから何処へ行くとも何とも言はなかつたんでせうか?』
『否《いいえ》、何とも別に。』と言つて、智恵子は意味|有気《ありげ》な目で吉野を仰いで、そして俯向いた。
『歩いてゐたら逢ふでせうよ。』と吉野は鷹揚に言つた。『怎《ど》うです。日向|様《さん》も被行《いらつしや》いませんか、盆踊を見に?』
『ハ。……マアお茶でも召上つて……。』
『直ぐ被行いな、智恵子様。何か御用でも有つて?』と静子も促す。
『否《いいえ》。』
『行きませう! 僕は盆踊は生れて初めてなんです。』と、吉野はモウ戸外《そと》へ出る。
 で、智恵子は一寸奥へ行つて、帯を締直して来て、一緒に往来に出た。
 樺火は少許《すこし》頽《すた》れた。踊がモウ始まつたのであらう、太鼓の音は急に高くなつて、調子に合つてゐる。唄の声も聞える。人影は次第々々にその方へながれて行く。
 提灯を十も吊した加藤医院の前には大束の薪がまだ盛んに燃えてゐて、屋内《やうち》は昼の如く明るく、玄関は開放《あけはな》されてゐる。大形の染の浴衣に水色|縮緬《ちりめん》をグル/\巻いた加藤を初め、清子、薬局生、下女、皆玄関に出て往来を眺めてゐた。
『ヤア、皆様《みなさん》お揃ひですナ。』と、加藤から先づ声をかける。
『お涼《すず》みですか。』と吉野が言つて、一行はゾロ/\と玄関に寄つた。
『Guten《グーテン》 Abend《アベント》, Herr《ヘル》 Yoshino《ヨシノ》! ハハヽヽ。』と、近頃通信教授で習つてるといふ独逸《ドイツ》語を使つて、加藤は太つた体を揺ぶる。晩酌の後で殊更《ことさら》機嫌が可《よ》いと見える。
『サ、マアお上りなさい、屹度|被来《いらつしや》ると思つたからチヤンと御馳走が出来てます。』
『それは恐入つた。ハハヽヽ。』
 傍では、静子が兄の事を訊いてゐる。
『先刻《さつき》一寸|被行《いらしつ》つてよ。晩にまた来ると被仰《おつしや》つて直ぐお帰りになりましたわ。』と清子が言ふ。
『ウン、然う/\。』と加藤が言つた。
『吉野さん、愈々盆が済んだら来て頂きませう。先刻《さつき》信吾さんにお話したら夫れは可い、是非書いて貰へと被仰つてでしたよ。是非願ひませう。』
『小川君にお話しなすつたですか! 僕は何日《いつ》でも可《い》いんですがね。』
『真箇《ほんと》に、小川|様《さん》に被居《いらつしや》るよりは御不自由で被居いませうが、お書き下さるうちだけ是非|何卒《どうぞ》……。』と清子も口を添へる。そして静子の方を向いて、
『アノ、何ですの、宅《うち》がアノ阿母様《おつかさん》の肖像を是非吉野様に書いて頂きたいと申すんで、それで、お書き下さる間《うち》、宅《うち》に被行《いらつし》つて頂きたいんですの。』
『太丈夫[#「太丈夫」はママ]、静子|様《さん》。』と加藤が口を出す。
『お客様を横取りする訳ぢやないんです。一週間許り吉野|様《さん》を拝借したいんで……直ぐお返ししますよ。』
『ホヽヽ、左様で御座いますか!』と愛想よく言つたものの、静子の心は無論それを喜ばなかつた。
 吉野は無理矢理に加藤に引張《ひつぱり》込まれた。女連は霎時《しばし》其処に腰を掛けてゐたが、軈《やが》て清子も一緒になつて出た。
 町の恰度|中央《なかほど》の大きい造酒家《さかや》の前には、往来に盛んに篝火《かがり》を焚いて、其|周囲《めぐり》、街道《みち》なりに楕円形な輪を作つて、踊が初まつてゐる。輪の内外《うちそと》には沢山の見物。太鼓は四挺、踊子は男女《をとこをんな》、小供らも交つて、まだ始まりだから五六十人位である。太鼓に伴《つ》れて、手振足振面白く歌つて廻る踊には、今の世ならぬ古色がある。揃ひの浴衣に花笠を被つた娘等《むすめども》もある。編笠に顔を蔽《かく》して、酔つた身振の可笑《をかし》く、唄も歌はずに踊り行く男もある。
 月は既に高く上つて、楽気に此群を照した。女連は、睦気《むつまじげ》に語りつ笑ひつし乍ら踊を見てゐた。
 と、軽《かろ》く智恵子の肩を叩いた者があつた。静子清子が少し離れて誰やら年増の女と挨拶してる時。

     (十一)の四

 振向くと、何時《いつ》医院から出て来たか吉野が立つてゐる。
『アラ!』
 智恵子は恁う小声に言つて、若い血が顔に上つた。何がなしに体の加減が良くないので、立つてゐても力が無い。幾挺の太鼓の強い響きが、腹の底までも響く。――今しもその太鼓打が目の前を過ぎる。
 吉野は無邪気に笑つた。
 二人は並んで立つた、立並ぶ見物の後《うしろ》だから人の目も引かぬ。
(私──と──)
と、好い声で一人の女が音頭をとる。それに続いた十人許りの娘共は、直ぐ声を合せて歌ひ次いだ。
(――お前―は―ア御門《ごもん》―の―とび―ら―ア、朝―に―イわか―れ―てエ、晩に逢ふ――)
 同じ様な花笠に新しい浴衣、淡紅色《ときいろ》メリンスの襷《たすき》を端長く背に結んだ其娘共の中《うち》に、一人、背の低い太つたのがあつて、高音《ソプラノ》中音《アルト》の冴えた唄に際立つ次中音《テノル》の調子を交へた、それが態《わざ》と道化た手振をして踊る。見物は皆笑ふ。
 ドヾドンと、先頭の太鼓が合《あひ》を入れた。続いた太鼓が皆それを遣る。調子を代へる合図だ。踊の輪は淀んで唄が止む、下駄の音がゾロ/\と縺《もつ》れる。
(ドヾドコドン、ドコドン――)
と新しく太鼓が鳴り出す。――ヨサレ節といふのがこれで。――淀んだ輪がまたそれに合せて踊り始める。何処やらで調子はづれた高い男の声が、最先に唄つた――
(ヨサレ―茶屋のか―アかア、花染―の―たす―き―イ――)
『面白いですねえ。』と、吉野は智恵子を振返つた。『宛然《まるで》古代《むかし》に帰つた様な気持ぢやありませんか!』
『えゝ。』
 智恵子は踊にも唄にも心を留めなかつた様に、何か深い考へに落ちた態《さま》で、悩まし気に立つてゐた。
と見た吉野は、
『貴女何処かまだ悪いんぢやないんですか! お体の加減が。』
『否《いいえ》、たゞ少許《すこし》……』
 俄かに見物が笑ひどよめく。今しも破蚊帳《やぶれがや》を法衣《ころも》の様に纏《まと》つて、顔を真黒に染めた一人の背の高い男が、経文《おきやう》の真似をしながら巫山戯《ふざけ》て踊り過ぎるところで。
『吉野|様《さん》!』
 智恵子は思切つた様に恁う囁いた。
『何です?』
『アノ……』と、眤と俯向いた儘で、
『私今日、アノ、困つた事を致しました!』
『……何です、困つた事ツて?』
 智恵子は不図顔を上げて、何か辛さうに男を仰いだ。
『アノ、私小川様を憤《おこ》らして帰してよ。』
『小川を※[#疑問符感嘆符、1−8−77] 怎《ど》うしたんです?』
『そして、瞭然《きつぱり》言つて了ひましたの。……貴方には甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に御迷惑だらうと思つて、後で私……』
『解りました、智恵子様!』
 恁《か》う言つて、吉野は強く女の手を握つた。
『然《さ》うでしたか!』と、ガツシリした肩を落す。
 智恵子はグンと胸が迫つた。と同時に、腹の中が空虚《からつぽ》になつた様でフラ/\とする。で、男の手を放して人々の後《うしろ》に蹲《しやが》んだ。
 目の前には真黒な幾本の足、彼方《かなた》の篝火がその間から見える。――智恵子は深い谷底に一人落ちた様な気がした。涙が溢れた。
『アラ、先刻《さつき》から被来《いらし》つて?』と背後《うしろ》に静子の声。
 吉野の足は一二尺動いた。
『今来た許りです。』
『然うですか! 兄は怎《ど》うしたんでせう、今方々探したんですけれど。』
『学校ですよ、屹度。』と清子が傍から言ふ。
『オヤ、日向|様《さん》は?』と、静子は周囲を見廻す。
 智恵子は立ち上つた。
『此処にゐらしつたわ!』
『立つてると何だかフラ/\して、私蹲んでゐましたの、先刻《さつき》から。』
『然う! まだお悪いんぢやなくつて。』と静子は思遣深い調子で言つた。そして(悪いところをお誘ひしたわねえ)(家へ帰つてお寝みなすつては?)と、同時に胸に浮んだ二つの言葉は、何を憚《はばか》つてか言はずに了つた。
『何処かお悪くつて?』と、清子は医師の妻。
『否《いいえ》、少許《すこし》……モ少し見たら私帰りますわ。』

     (十一)の五

 さうしてる間にも、清子は嫁の身の二三度家へ行つて見て来た。その度、吉野に来て一杯《ひとつ》飲めと加藤の言伝《ことづて》を伝へた。
 信吾は来ない。
 月は高く上つた。其処此処の部落から集つて来て、太鼓は十二三挺に増えた。笛も三人|許《ばか》り加はつた。踊の輪は長く/\街路《みち》なりに楕円形になつて、その人数は二百人近くもあらう。男女、事々しく装つたのもあれば、平常服
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