[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事言つたんですか?』
『矢張《やつぱり》聞きたいんでせう?』
『聞きたいこともないが、……然し其奴《そいつ》ア珍聞だ。』
『珍聞?』と、また勝誇つた眼付をして、『貴方も余程《よつぽど》頓馬ね!』
『怎うして?』
『怎うしてだと! ホヽヽヽ。』と、持つてゐる書《ほん》で信吾の膝を突《つつ》く。
『それより神山|様《さん》、誰が其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事言つたんですか?』
『確かな所から。』
『然し面白いなア。ハツハハ。真箇だつたら実に面白い。可し/\、一つ吉野に揶揄《からか》つてやらう。』と、一人|態《わざ》と面白さうに言ふ。
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に面白くつて?』
『面白いさ。宛然《まるで》小説だ!』
『然うね。この話は誰より一番信吾|様《さん》に面白いの。ね、然うでせう?』
『それはまた、怎うした訳です?』
『ね、然うでせう? 然うでせう?』
と、男を圧迫《おしつけ》る様に言つて探る様な眼を異様に輝かした。そして、弾機《ばね》でも脱れた様に、
『ホホヽヽ。』と笑つた。
『ハハヽヽ。』と、信吾も為方《しかた》なしに笑つて、『実に詭弁家だな神山|様《さん》は!』
『詭弁家? 怎うせ然うよ、今の話も私が拵へたんだから!』
『否《いや》、其意味ぢやないんですよ。誰です、それを言つたのは?』
 其顔を嘲る様に眤と見て、『矢張気に懸るわね、信吾|様《さん》!』
『莫迦な!』と言つたが、女に自分の心を探られてゐるといふ不快が信吾の脳《なう》を掠めた。『それより奈何《どう》です、その吉野の方へ行つてみませんか?』
『行きませう。』
 信吾はツト立つて縁側に出ると、
『吉野君。』
と大きく呼んだ。
『何だ?』と落着いた返事。
『昼寝してたんぢやないのか! 今神山さんが来たが、其方《そつち》へ行つても可《い》いか?』
『来たまへ。』
『行きませう。』と富江を促して、信吾は先に立つ。富江は何か急に考へる事でも出来た様な顔をして、黙つてその後に跟《つ》いた。縁側伝ひ、蔭《かげ》つた庭の植込に蜩《ひぐらし》が鳴き出した。

     (十)の四

 今年の春の巴里のサロンの画譜を披《ひら》いて、吉野は何か昌作に説明して聞かしてゐた。
 一通りの挨拶が済むと、富江はすぐ立つて、壁に立掛けてある書きかけの水彩画を見る。信吾はゴロリと横になつて、その画のことを吉野と語る。
『昌作さん。』と富江が呼びかけた。『貴方昨日町へ被行《いらし》つて?』
『行つた。山内へ見舞に。』
『奈何でしたの、御病気は?』と笑つてゐる。
『それや可哀想ですよ。臥《ね》たり起きたりだが、今年中に死ぬかも知れないなんて言つてるもの』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に悪いかねえ。それや可哀想だ。何しろ那《あ》の体だからなア。』と信吾は別に同情した風もなく言ふ。
『盛岡に帰るさうだ。四五日中に。』
『昌作さん。』と富江は再《また》呼んだ。そして急しく吉野と信吾の顔を見巡して、
『好《い》い物上げませうか、貴方に?』
『何です?』
『好い物なら僕も貰ひたいな。』
『信吾さんには可厭《いや》。ねえ昌作|様《さん》、上げませうか?』
『何だらうな!』と昌作は躊躇する。
『二人が喧嘩しちや可けないから僕が貰ひませうか?』と吉野は淡白《きさく》に笑ふ。
『ねえ昌作様、誰方《どなた》にも見せちや可けませんよ。』
『可《よ》し、志郎と二人で見る。』
『否《いいえ》、貴方一人で見なくちや可けないの。』と言ひながら、富江は何やら袂から出して、掌に忍せて昌作に渡す。
 昌作は極悪気《きまりわるげ》にそれを受けた。そして、
『可《よ》し、可し。』と言ひながら庭下駄を穿いて、
『オイ、志郎! 好い物があるぞ。』
と声高に母屋の方へゆく。
『あら可《い》けませんよ、人に見せちや。』と富江は其|後《うしろ》から叫んで、そして、面白さうにホホヽヽと笑つた。
 二人は好奇心に囚れた。
『何です、何です?』と信吾が言ふ。
『何でもありませんよ。』と、済《すま》し返つて、吉野の顔をチラと見た。
『怪しいねえ、吉野君。』
『ハツハハ。』
『豈夫《まさか》! 信吾さんたら真箇《ほんと》に人が悪い。』と何故か富江は少し慎《つつま》しくしてゐる。
 其処へ、緑美しき甜瓜《まくわうり》を盛つた大きい皿を持つて、静子が入つて来た。
『余り甘味《おいし》くないんですけれど……。』
『何だ? 甜瓜か! 赤痢になるぞ。』と信吾。
『マ兄様《にいさん》は!』と言つて、『真箇でせうか神山様、赤痢が出たつてのは?』
『真箇には真箇でせうよ。隔離所は三人とか収容したつてますから。ですけれど大丈夫ですわねえ、余程離れた処ですもの。』
『ハヽヽ。神山|様《さん》が大丈夫ツてのなら安心だ。早速やらうか。』と信吾が真先に一片《ひとつ》摘《つま》む。
 軈《やが》て、裾短かの筒袖を着た志郎と昌作が入つて来た。
『ヤア志郎さん、今迄昼寝ですか?』と吉野が紛※[#「巾+兌」、277−上−16]《はんけち》に手を拭き乍ら言ふ。
『否、僕は昼寝なんかしない。高畑《たかばたけ》へ行つて号令演習をやつて来て、今水を浴《かぶ》つたところです。』
『驚いた喃《なあ》。君は実に元気だ!』
 昌作は何か亢奮してる態《さま》で、肩を聳かして胡坐《あぐら》をかいた。
『何だい彼物《あれ》は、昌作さん?』と信吾が訊く。
『莫迦だ喃!』と昌作は呟く様に言つて、眤と眼鏡の中から富江を見る。『然し俺は山内に同情する。』
 富江は笑ひながら、『アラ可けませんよ、此処で喋つては。』
『僕も見た。』と志郎が口を入れた。『オイ昌作さん、皆《みんな》に報告しようか?』
『言へ、言へ。何だい?』と信吾は弟を唆《そその》かす。昌作は黙つて腕組をする。
『言はう。』と志郎は快活に言つて、『アレは肺病で将《まさ》に死せんとする山内謙三の艶書です。終り。』
『マア、志郎さんは酷い!』と、流石に富江も狼狽する。
『艶書?』と、皆は一度に驚いた。
『それが怎《ど》うしたの、志郎様!』と静子が訊く。
 呆れてゐる信吾の顔を富江は烈しい目で凝視《みつ》めてゐた。

     (十一)の一

 前日富江が来て、急に夕方から加留多会を開くことになり、下男の松蔵が静子の書いた招待状を持つて町に走せたが、来たのは準訓導の森川だけ。智恵子は病気と言つて不参。到頭肺病になつて了つた山内には、無論|使者《つかひ》を遣らなかつた。
 智恵子の来なかつたのは、来なければ可《い》いと願つた吉野を初め、信吾、静子、さては或る計画《もくろみ》を抱いてゐた富江の各々《おのおの》に加留多に気を逸《はず》ませなかつた。其夜は詰らなく過ぎた。
 静子の生涯に忘るべからざる盆の十四日の日は、朗々《ほがらほがら》と明けた。風なく、雲なく、麗《うらら》かな静かな日で、一年中の愉楽《たのしみ》を盆の三日に尽す村人の喜悦《よろこび》は此上もなかつた。
 村に禅寺が二つ、一つは町裏の宝徳寺、一つは下田の喜雲寺、何れも朝から村中の善男善女を其門に集めた。静子も、母お柳の代理で、養祖母のお政や小供らと共に、午前のうちに参詣に出た。
 その帰路《かへり》である。静子は小妹《いもうと》二人を伴れて、宝徳寺路の入口の智恵子の宿を訪ねた。智恵子は、何か気の退《ひ》ける様子で迎へる。
『怎うなすつたの、智恵子さん? 風邪《おかぜ》でもお引きなすつて?』
『否《いいえ》、今日は何とも無いんですけれど、昨晩恰度お腹が少し変だつた所でしたから……折角お使者《つかひ》を下すつたのに、済みませんでしたわねえ。』
『心配したわ、私。』と、静子は真面目に言つた。『貴女が被来《いらつしや》らないもんだから、詰らなかつたの加留多は。』
『アラ其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事は有りませんわ。大勢|被行《いらし》つたでせう、神山|様《さん》も?』
『けどもねえ智恵子様、怎うしたんだか些《ちつ》とも気が逸《はず》まなかつてよ。騒いだのは富江さん許り……可厭《いやあ》ねアノ人は!』
『……那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》人だと思つてれヤ可《い》いわ。』
 静子は、その富江が山内の艶書を昌作に呉れた事を話さうかと思つたが、何故か二人の間が打解けてゐない様な気がして、止めて了つた。三十分許り経つて暇乞をした。
 二人は相談した様に、吉野のことは露程も口に出さなかつた。
 静子が家《うち》へ帰ると、信吾は待ち構へてゐたといふ風に自分の室へ呼んで、そして、何か怒つてる様な打切棒《ぶつきらぼう》な語調《てうし》で、智恵子の事を訊いた。
 静子は有《あり》の儘に答へた。
『然うか!』
と言つた信吾の態度《やうす》は、宛然《さながら》、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事は聞いても聞かなくても可いと言つた様であつたが、静子は征矢《そや》の如く兄の心を感じた。そして、何といふ事なしに、
『兄様《にいさん》に宜敷と言つてよ、智恵子|様《さん》が!』
と言つて見た。智恵子は何とも言つたのではないが。
『然うか!』と、信吾は再《また》卒気《そつけ》なく答へた。
 そして、昼飯が済むと、フラリと一人出て、町へ行つた。
 信吾が出かけて間もなくである。月の初めに子供らを伴れて来た盛岡の叔母が、見知らぬ一人の老人《としより》を伴れて来た。叔母は墓参の為と披露した。連の男は松原家から頼まれて来たのだとは直ぐ知れた。言ふまでもなく静子の縁談の事で。
 父の信之、祖父の勘解由《かげゆ》、母お柳、その三人と松原家の使者《つかひ》とは奥の間で話してゐる。叔母も其席に出た。静子は今更の様に胸が騒ぐ。兄の居ないのが恨めしい。若しや此話から、自分と死んだ浩一との事が吉野に知れはしないかと思ふと、その吉野にも顔を見せたくなかつた。
 室《へや》に籠つたり、台所へ行つたり、庭に出たり、兎角して日も暮れかかつた。信吾はそれでも帰つて来ない。夕方から一緒に盆踊を見に行く筈だつたのだが。
 晩餐の時、媒介者《なかうど》が今夜泊るのだと叔母から話された。信吾は全然《すつかり》暗くなつても帰らぬ。母お柳の勧めで、兄とは町へ行つて逢ふことにして、静子は吉野と共に小妹《いもうと》達や下女を伴れて踊見物に出ることになつた。

     (十一)の二

 恰度《ちやうど》鶴飼橋へ差掛つた時、円い十四日の月がユラ/\と姫神山の上に昇つた。空は雲|一片《ひとつ》なく穏かに晴渡つて、紫深く黝《くろず》んだ岩手山が、歴然《くつきり》と夕照《せきせう》の名残の中に浮んでゐる。
 仄《ほんの》りと暗い中空《なかぞら》には、弱々しい星影が七つ八つ、青びれて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第/\に高く上る。町からはモウ太鼓の響が聞え出した。
 たとへ何を言つたとて小妹《いもうと》共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ静子の心は、言ふ許りなく動悸《ときめ》いてゐた。家には媒介者《なかうど》が来てゐる。松原との縁談は静子の絶対に好まぬ所だ。その話の発落《なりゆき》が恁《か》うして歩いてゐ乍らも心に懸らぬではない。否、それが心に懸ればこそ、静子は種々《いろいろ》の思ひを胸に畳んだ。
『若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! 否《いな》、若し此人が現在自分の夫であつたら!』
 月明かに静かな四辺《あたり》の景色と、遠き太鼓の響とは、静子の此|心境《ここち》に適合《ふさは》しかつた。静子は小妹《いもうと》共の罪なき言葉に吉野と声を合して笑ひ乍ら、何がなき心強さと嬉しさを禁ずることが出来なかつた。よし何事が次いで起らなかつたにしても、静子は此夜の心境《ここち》を
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