にも、智恵子の顔の書かれてあることは、静子は遂に知らなかつた。
間もなく庭に下駄の音がした。静子は妙に躊躇《ためら》つた上で、急いで再《また》離室に来た。一枚残した雨戸から、恰度吉野が上るところ、
『怎《ど》うも遅くなつちやつて。』
『否《いいえ》。お帰り遊ばせ。』
恁《か》う云つたが、男の顔を見る事は出来なかつた。俯向《うつむ》いた顔は仄《ほんの》りと紅かつた。急いで洋燈を明るくする。
『実に済みませんでした。這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に遅くなる積ぢやなかつたんですが……。』
『否《いいえ》、貴方。アノ、兄はお酒を過して頭痛がすると言つて、お先に……。』
『然うですか。僕はスツカリ醒めちやつた。モウ何時頃でせう?』
『十時、で御座いませう。』
吉野はドカリと机の前に座つた。ト静子は、今し方自分が其処に座つた事が心に浮んで、
『お寝み遊ばせ。』
と言ふより早く障子を閉めて縁側に出た。吉野はグタリと首を垂れて眼を瞑《つぶ》つた。着衣《きもの》はシツトリと夜気に萎《な》えてゐる。裾やら袖やら、川で濡らした此|着衣《きもの》を、智恵子とお利代が強《た》つて勧めて乾かして呉れたのだ。その間、吉野は誰の衣服を着てゐたか!
『智恵子! 智恵子!』
と吉野の心は叫んだ。密《そつ》と左の二の腕に手を遣つて見た。其処に顔を押付けて、智恵子は何と言つた※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
『貴方は……貴方は……!』
(十)の一
吉野が新坊の生命を救けた話は、翌朝朝飯の際に吉野自身の口から、簡単に話された。
同じ話がまた、前夜其場に行合せた農夫《ひやくしやう》が、午頃《ひるごろ》何かの用で小川家の台所に来た時、稍《やや》詳しく家中の耳に伝へられた。成年者《としより》達は心から吉野の義気に感じた様に、それに就いて語つた。信吾と静子は、顔にも言葉にも現されぬ或る異つた感想《かんじ》を抱かせられた。
昌作はまた、若しもそれが信吾によつて為された事なら甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》にか不愉快を感じたらうが、何がなしに虫の好く吉野だつたので、その豪いことを誇張して継母《はは》などに説き聞せた。そして、かの橋下の瀬の迅《はや》い事が話の起因《おこり》で、吉野に対《むか》つて頻《しき》りに水泳に行く事を慫慂《すす》めた。昌作の吉野に対する尊敬が此時からまた加つた。
其翌日か翌々日、叔母と其子等は盛岡に帰つて行つた。この叔母は、数ある小川家の親籍の中でも、殊更お柳と気心が合つてゐた。といふよりは、夫が非職の郡長上りか何かで、家が余り裕《ゆた》かで無いところから、お柳の気褄《きづま》を取つては時々|恁《か》うして遣つて来て、その都度|家計向《うちむき》の補助《たすけ》を得てゆくので。お柳は、松原からの縁談がモウ一月の余《よ》もバタリと音沙汰がないのを内々心配してゐたので、密かにこの叔母に相談した。女二人の間には人知れず何事かの手筈が決められた。叔母は素知らぬ顔をして帰つて了つた。
叔母を送つて好摩の停車場《ステイシヨン》に行つた下男と下女は、新しい一人の人物《ひと》を小川家に導いて帰つた。それは外ではない、信之の次男、静子とは一歳劣《ひとつおと》りの弟の、志郎といふ士官候補生だ。
志郎は兄弟中での腕白者、お柳の気には余り入らぬが、父の信之からは此上なく愛されてゐる。静子と縁談の持上つてゐる松原家の三男の狷介《けんすけ》とは小い時からの親友《なかよし》で、相共に陸軍に志し試験も幸ひと同時に及第して士官学校に入つた。一日《ついたち》から二十日間の休暇を一週間許り仙台に遊んで、確《しか》とした前知らせもなく帰つて来たのだ。
或日、母のお柳は志郎を呼んで、それとなく松原中尉の噂を聞いてみた。その返事は少からずお柳を驚かせた。
『松原の政治か! 彼奴《あいつ》ア駄目だよ、阿母様《おつかさん》、狷介なんかも兄貴に絶交して遣らうなんて言つてゐた。』
『奈何《どう》してだい、それはまた?』
『奈何してツて、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》馬鹿はない。それや評判が悪いよ、此年《ことし》の春だつけかナア、下宿してゐた素人屋の娘を孕ませて大騒ぎを行《や》つたんだよ、友人なんか仲に入つて百五十円とか手切金を遣つたさうだ。那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]奴ア吾々軍人の顔汚《つらよご》しだ。』
お柳は猶その話を詳しく訊いた上で、その事は当分静子にも誰にも言ふなと口留した。
志郎は淡白《きさく》な軍人|気質《かたぎ》、信吾を除いては誰とも仲が好い。緩々《ゆるゆる》話をするなんかは大嫌ひで、毎日昌作と共に川にゆく、吉野とも親んだ。――
常ならぬ物思ひは、吉野と信吾と静子の三人の胸にのみ潜んだ。そして、三人とも出来るだけそれを顔に表さぬ様に努めた。智恵子の名は、三人とも怎《ど》うしたものか可成《なるべく》口に出すことを避けた。
吉野は医師の加藤と親んで、写生に行くと言つて出ては、重ねて其|家《いへ》を訪ねた。
智恵子は唯一度、吉野も信吾も居らぬ時に遊びに来たツ限《きり》。
暑い/\八月も中旬《なかば》になつた。螢の季節《とき》も過ぎた。明日《あす》は陰暦の盂蘭盆《うらぼん》といふ日、夕方近くなつて、門口から噪《はしや》いだ声を立てながら神山富江が訪ねて来た。
(十)の二
富江が来ると、家中《うちぢゆう》が急に賑かになつて、高い笑声が立つ。暑熱《あつさ》盛りをうつら/\と臥《ね》てゐたお柳は今し方起き出して、東向の縁側で静子に髪を結はしてる様子。その縁側の辺《あたり》から、富江の声が霎時《しばし》聞えてゐたが、何やら鋭く笑ひ捨てて、縁側伝ひに足音が此方《こなた》へ来る。
信吾も昼寝から覚めた許り、不快な夢でも見た後の様に、妙に燻《くす》んだ顔をして胡坐《あぐら》を掻いてゐた。富江の声や足音は先《さつき》から耳についてゐる。が、心は智恵子のことを考へてゐた。
或は一人、或は吉野と二人、信吾は此月に入つてからも三四度智恵子を訪ねた。二人の話はモウ以前の様に逸《はづ》まなくなつた。吉野が来てからの智恵子は、何処となく変つた点《ところ》が見える。さればと言つて別に自分を厭《いと》ふ様な様子も見せぬ。
かの新坊の溺死を救けた以来、吉野が一人で、或は昌作を伴れて、智恵子を訪ねることも、信吾は直ぐに感付いてゐた。二人の友人の間には何日しか大きい溝が出来た。信吾は苛々《いらいら》した不快な感情に支配されてゐる。
いつそ結婚を申込んでやらうか、と考へることがないでもない。が、信吾は左程までに深く智恵子を思つてるのでもないのだ。高が田舎の女教員だ! といふ軽侮が常に頭脳《あたま》にある。確固《しつかり》した女だとも思ふ。確固した、そして美しい女だけに、信吾は智恵子をして他の男――吉野を思はしめたくない。何といふ理由なしに。自分には智恵子に思はれる権利でもある様に感じてゐる。『吉野を帰して了ふ工夫はないだらうか!』這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》考へまでも時として信吾を悩ました。
そして又、静子の吉野に対する素振も、信吾の目に快くはなかつた。総じて年頃の兄が、年頃の妹の男に親まうとするを見るのは、楽いものではない。平生《へいぜい》恋といふものに自由な信条を抱いてる男でも、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》場合には屹度自分の心の矛盾を発見する。
『戸籍上は兎も角、静子はモウ未亡人ぢやないか!』
信吾の頭脳には恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》皮肉さへも宿つてゐる。これと際立つところはないが、静子が吉野の事といへば何より大事にしてゐる、それが唯癪に障る。理由もなく不愉快に見える――。
『マア、起きてらつしつたんですか!』と、富江は開け放した縁側に立つた。
『貴女《あなた》でしたか!』
『オヤ、別の人を待つてゐたの!』
『ハツハハ。相不変《あひかはらず》不減口《へらずぐち》を吐《はた》く! 暑いところを能くやつて来ましたね。』
『貴方が昼寝してるだらうから、起して上げようと思つて。』
『屹度《きつと》神山さんが来ると思つたから、恁《か》うしてチヤンと起きて待つてたんですよ。』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事|誰方《どなた》から習つて? ホホヽヽ、マア何といふ呆然《ぼんやり》した顔! お顔を洗つて被来《いらつしや》いな。』と言ひ乍ら、遠慮なく座つた。
『適《かな》はない、適はない。それぢや早速仰せに従つて洗つて来るかな。』
『然うなさいな。モウ日が暮れますから。』と言つて、無造作に其処に落ちてゐる小形の本を取る。
立ち上つた信吾は、
『ア、其奴《そいつ》ア可《い》けない。』と、それを取返さうとする。
娘らしい、態《さま》をして、富江は素早く其手を避けた。
『何ですの、これ? 小説?』
黄《きいろ》い本の表紙には、[#ここから横組み]“True《ツルー》 Love《ラヴ》”[#ここで横組み終わり]と書かれた。文科の学生などの間に流行《はやつ》てゐる密輸入のアメリカ版の怪しい書《ほん》だ。
『ハツハハ。』と信吾は手を引込ませて、『マア小説みたいなもんでサ。』
『みたいなナンテ……確乎《しつかり》教へたつて好いぢやありませんか? 私は読めるんぢやなし……。』
『それが読めたら面白いですよ。』と、信吾はニヤ/\笑つてゐる。
『日向|様《さん》の真似をして私も英語をやりませうか?』と言つて、富江は皮肉に笑つてる眼で男を仰いだ。
そして直ぐ何か思出した様に声を落して、『然う/\、信吾さん、面白い話がありますよ。』
『甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》?』
『マアお顔を洗つてらつしやいな。』
(十)の三
顔を洗つて来た信吾は、気も爽々《さつぱり》した様《やう》で、ニヤ/\笑ひながら座についた。
『アラ、貴方のお髯は洗つても落ちませんね。』
『戯談《じやうだん》ぢやない。それより何です、面白い話といふのは?』
『詰らない事ですよ。』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に自重《もた》せなくても可いぢやないですか?』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に聞きたいんですか?』
『貴女が言ひ出して置いた癖に。』
『ホホヽヽ。そんなら言ひませうか。』
『聞いて上げませう。』
『アノネ……』と、富江は探る様な目付をして、笑ひ乍ら真面《まとも》に信吾を見てゐる。
信吾は、其話が屹度《きつと》智恵子の事だと察してゐる。で、恁《か》う此女に顔を見られると、擽られる様な、かつがれてる様な気がして、妙に紛《まぎ》らかす機会《はづみ》がなくなつた。
『何です!』
と少し苛々した語調《てうし》。
『ホホヽヽ。』と富江は再《また》笑つた。『或人がね。』
『或人ツて誰?』
『マア。』
『可《よ》し/\。その或人が怎《ど》うしたんです?』
『アノ方をね。』と離室《はなれ》の方を頤で指す。
『吉野を。』と信吾の眼尻が緊《しま》つた。
『ホホヽヽ。』
『吉野を怎うしたんです?』
『……ですとサ。ホホヽヽ。』
『豈夫《まさか》! 神山|様《さん》の口にや戸が閉《た》てられない。』
と言つて、何を思つてか膝を揺つて大きく笑つた。
目的《あて》が脱《はづ》れたといふ様に、富江は急に真面目な顔をして、
『真箇《ほんと》ですよ。』
『豈夫《まさか》? 誰が其※
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