し言葉が断れた。螢が飛ぶ。小供らも二人の態《さま》を見て、我先にと裾を捲つて水に入つた。
 相対した彼岸《かなた》の崕《がけ》には、数知れぬ螢がパーツと光る。川の面が一面に燐でも燃える様に輝く。
『アレツ!』『アレツ、新坊|様《さん》が!』と魂消《たまぎ》つた叫声《さけび》が女児《こども》らと智恵子の口から迸《ほとば》しつた。五歳《いつつ》の新坊が足を浚《さら》はれて、呀《あつ》といふ間もなく流れる。と見た吉野は、突然《いきなり》手を挙げて智恵子の自ら救はんとするを制した。
『大丈夫!』
 唯|一言《ひとこと》、手早く尻をからげてザブ/\と流れる小供の後を追ふ。小供は刻々|中流《おき》へ出る、間隔は三間許りもあらう。水は吉野の足に絡《からま》る。川原に上つた小供らは声を限りに泣騒いだ。

     (九)の五

 川底の石は滑かに、流は迅《はや》い。岸の智恵子が俄《には》かの驚きに女児《こども》らの泣騒ぐも構はずハラ/\してる間《うち》に、吉野は危き足を踏しめて十二三間も夜川の瀬を追駆《おつか》けた。波がザブ/\と腰を洗つた。
 螢の光と星の影、処々に波頭の蒼白く翻へる間を、新坊はヅブ/\と流れて行く。
 グイと手を延ばすと、小い足が捉《つかま》つた。
『大丈夫!』と吉野は声高く呼んだ。
『捉りましたか?』と智恵子の声。
『捉つた!』
 吉野は、濡れに濡れて呼吸《いき》も絶えたらしい新坊の体を、無造作に抱擁《だきかか》へて川原に引返した。其処へ、騒ぎを聞いて通行《とほりすがり》の農夫《ひやくしやう》が一人、提灯を携げて下りて来た。
『何したべ? 誰が死んだがナ?』
『何有《なあに》、大丈夫!』
と、吉野は水から上つた。恰度《ちやうど》橋の下である。
『新坊さん、新坊さん!』と智恵子は慌てて小供に手を添へて、『まア真箇《ほんと》に! 怎《ど》うしませう!』と顫《ふる》へてゐる。
『大丈夫ですよ。』
と吉野は落着いた声で言つて、小供の両足を持つて逆様に、小い体を手荒く二三度|揮《ふ》ると、吐出《はきだ》した水が吉野の足に掛つた。
 女児等《こどもら》は恐怖《おそれ》に口を噤《つぐ》んで、ブル/\顫へて立つてゐる。小いのはシク/\泣いてゐた。
『瀬が迅《はや》えだでなア! これやハア先生|許《どこ》の小供《わらし》だナ。』
と、農夫《ひやくしやう》は提灯を翳《かざ》した。
 と、吉野は手早く新坊の濡れた着衣《きもの》を脱がせて、砂の上に仰向に臥《ね》せた。そして、それに跨る様にして、徐々《そろそろ》と人工呼吸を遣り出す。
 可憐《いたいけ》な小い体を、提灯の火が薄く照らした。
 智恵子は、シツカリと吉野の脱ぎ捨てた下駄を持つた手を、胸の上に組んで、口の中で何か祈祷《いのり》をしながら、熱心に男のする態《さま》を見てゐた。
 大きい螢が一匹、スイと小供の顔を掠めて飛んだ。
『畜生!』
 恁《か》う言つて農夫《ひやくしやう》がそれを払つた。
『ワア――』
と、眠から覚めた様な鈍い泣声が新坊の口から洩れた。
『新坊さん!』と、智恵子は驚喜《よろこび》の声を揚げて、矢庭に砂の上の小供に抱着いた。
『生きた! 生きた!』と女児等《こどもら》も急に騒ぐ。
 新坊の泣き声も高くなつた。眼も開《あ》いた。
『死んだんぢやないんだよ、初めツから。』と、吉野もホツと安心した様な顔を上げて、笑ひながら女児等を見巡《みま》はした。
『ハア、大丈夫だ。』と農夫《ひやくしやう》も安心顔。
『何とハア、此処ア瀬が迅《はや》えだで、小供等《わらしやど》にや危ねえもんせえ。去年もハア……』と、暢気に喋り立てる。
『ワア――』と新坊はまだ泣く。
『その着物を絞つて下さい、日向|様《さん》、イヤ、それより温《あつた》めてやらなくちや。』と、吉野は裾やら袖やら濡れた己が着物の帯を解いて、肌と肌、泣く児をピツタリと抱いて前を合せる。
『私抱きませう。』と智恵子。
『構ひません。冷くて気持が好いですよ。サ、モウ泣かなくて可い、好い児《こ》だ! 好い児だ!……イヤ、恁うしてるよりや家《うち》へ帰つて寝かした方が好い。然う為ませう日向様! 此儘《このまんま》お送りしますから。温めなくちや、悪い!』
『そンだ、其《その》方《はう》が好うがンす。』と農夫《ひやくしやう》も口を添へる。
『済みません、貴方!』と、智恵子は心を籠めて言つて、『私がウツカリしてゐて這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事になつて……。』
『然うぢやない、僕が悪いんです。僕が先に川に入つて見せたんだから!』
『否《いいえ》、私……夢見る様な気持になつてゐて、つい……。』
 その顔を、吉野はチラリと見た。

     (九)の六

 星影|疎《まば》らに、川瀬の音も遠くなつた。熟した麦の香《か》が、暗い夜路に漂ようてゐる。
 先に立つた女児等《こどもら》の心々は、まだ何か恐怖《おそれ》に囚はれてゐて、手に手に小い螢籠を携へて、密々《ひそひそ》と露を踏んでゆく。訳もなく歔欷《すすりあ》げてゐる新坊を、吉野は確乎《しつか》と懐に抱いて、何か深い考へに落ちた態《さま》で、その後《あと》に跟《つ》いた。
 智恵子は、片手に濡れた新坊の着物を下げて、時々心配顔に小供の顔を覗き乍ら、身近く吉野と肩を並べた。胸は感謝の情に充溢《いつぱい》になつてゐて、それで、口は余り利けなかつた。
『阿母様《おつかさん》!』
と、新坊は思出した様に時々呼んで、ワアと力なく泣く。
『モウ泣かないの、今阿母様の処へ伴れてつて下さるわ。ねえ、新坊|様《さん》、モウ泣かないの。』
と、智恵子は横合から頻《しきり》に慰《なだ》める。
『真箇《ほんと》に私、……貴方が被来《いらつしや》らなかつたら、私|奈何《どう》したで御座いませう!』
『其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事はありません。』
『だつて私、万一《もしも》の事があつたら、宿の小母さんに甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》にか……。』
『日向様!』
と吉野は重々しい語調《てうし》で呼んだ。
『僕は貴女に然う言はれると、心苦しいです。誰だつて那《あ》の際|那《あ》の場処に居たら、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あれ》位の事をするのは普通《あたりまへ》ぢやありませんか?』
『だつて、此《この》児《こ》の生命《いのち》を救けて下すつたのは、現在貴方ぢや御座いませんですか!』
『日向様!』と吉野は再《また》呼んだ。『モ少許《すこし》真摯《まじめ》に考へて見ませう……若し那《あ》の際、那処《あそこ》に居たのが貴女でなくて別の人だつたらですね、僕は同じ行動《こと》を行《や》るにしても、モツト違つた心持で行《や》つたに違ひない。』
『まあ貴女は、……』
『言つて見れば一種の偽善だ!』
 然《さ》う言ふ顔を、智恵子は暗《やみ》ながら眤と仰いだ。何か言はうとしても言へなかつた。
『偽善です!』と、男は自分を叱付ける様に重く言つた。渠《かれ》は今、自分の心が何物かに征服される様に感じてゐる。それから脱れ様として恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》事を言ふのだ。『偽善です! 人が善といふ名の付く事をする、その動機は二つあります。一つは自分の感情の満足を得る為、畢竟《つまり》自分に甘える為、も一つは他《ひと》に甘える為です。』
『貴方は――』
と言ふより早く、智恵子の手は突然《いきなり》男の肩に捉つた。強烈《はげし》い感動が、女の全身に溢れた。強く/\其顔を男の二の腕に摩《こす》り付けて、
『貴方は……貴方は……』
と言ひ乍ら、火の様な熱い涙が滝の如く、男の肌に透る。
 吉野は礑《はた》と足を留《とど》めて、佶《きつ》と脣を噛んだ。眼も堅く閉ぢられた。
『ワア――』と、驚いた様に新坊が泣く。
 はしたない事をした、といふ感じが矢の如く女の心を掠めた。と、智恵子は、モ一度、
『貴方は!』
と迸《ほとば》しる様に言つて、肩に捉つた手を烈しく男の首に捲いた。
『先生!』と、五六間|前方《さき》から女児等《こどもら》が呼ぶ。
『行きませう!』と男は促した。
『ハ。』と云ふも口の中。身も世も忘れた態《さま》で、顔は男の体から離しともなく、二足三足、足は男に縺《もつ》れる。
『日向|様《さん》!』と男は足を留《と》めた。
『お許し下さい!』と絶入る様。
『僕は東京へ帰りませう!』
と言ふ目は眤と暗い処を見てゐる。
『……何故《なぜ》で御座います?』
『……余《あんま》り不思議です、貴女と僕の事が。』
『…………』
『帰りませう! 其方が可い。』
『遣りません!』と智恵子は烈しく言つて、男の首を強く絞める。
『あゝ――』と吉野は唸る様に言つた。
『お、お解りに、なりますまい、私のこ、心が……。』
『日向様!』と、男の声も烈しく顫へた。『其言葉を、僕は、聞きたくなかつた!』
 矢庭に二つの顔が相触れた。熟した麦の香の漂ふ夜路に、熱《あたた》かい接吻《きす》の音が幽かに三度《みたび》四度《よたび》鳴つた。

     (九)の七

 其夜、母に呼ばれて母屋《おもや》へ行つた静子が、用を済まして再び庭に出て来た時は、モウ吉野の姿が見えなかつた。植込の蔭、築山の上、池の畔《ほとり》、それとなく尋ね廻つて見たが、矢張見えなかつた。
 客は九時過になつて帰つた。父の信之は酔倒《ゑひたふ》れて了つた。お柳は早くから座を脱《はづ》して寝てゐたが、
『静や、吉野|様《さん》はモウお寝みになつたのかえ。』
『否《いいえ》、酔ツたから散歩して来るツて出てらしツてよ。』
『何時《いつ》頃?』
『二時間も前だわ。何処へ被行《いらしつ》たでせう?』
『昌作さんとかえ?』
『否《いいえ》、お一人。松蔵でもお迎ひにやツて見ませうか。』
『然《さ》うだねえ。』
『大丈夫だよ。』
と言ひ乍ら、赤い顔をした信吾が入ツて来た。
『彼奴《あいつ》の事《こつ》た、橋の方へでも行つてブラ/\してるだらう。それより俺は頭が痛くて為様《しやう》がないから、寝かして呉れよ。』
『お先に?』
『帰つたら然う言つて呉れ。そして床を延べて置いてやれ、あゝ酔つた!』
 で、静子は下女に手伝はして、兄を寝せ、座敷を片付けてから、一人|離室《はなれ》に入つた。夜気が湿《しつと》りと籠つて、人なき室《へや》に洋燈が明るく点《つ》いてゐる。
 一枚だけ残して雨戸も閉め、散乱《ちらか》つた物を丁寧《ていねい》に片寄せて、寝具も布き、蚊帳《かや》も吊つた。不図静子は、
『智恵子|様《さん》許《とこ》へ被行《いらし》つたのか知ら!』といふ疑ひを起した。『だつて、夜だもの。』『然し。』『豈夫《まさか》。』といふ考へが霎時《しばし》胸に乱れた。
『それにしても奈何《どう》なすつたらう?』
 静子は、何がなしに此《この》室《へや》に居て見たい様な気がした。で、夏座布団を布いた机の前に坐つて、心持洋燈の火を細くした。
『秋になつたら私が此室《ここ》にゐる様にしようか知ら!』
 机の上には、書《ほん》が五六冊。不図其中に、黒い表紙の写生帳が目に付いた。静子は何気なく其を取つて、或所を披《ひら》いた。
 と、静子の眼は輝いた。顔が染まつた。人なき室をキヨロ/\と見巡して再《また》それを熱心に見る。――鉛筆の走書の粗末ではあるが、書かれてあるのは擬《まが》ひもなく静子自身の顔ではないか!
 Erste《エルステ》 Eindruck《アインドルツク》(第一印象)と、独逸《ドイツ》語で其上に書かれた。それは然し、何の事やら静子には解らなかつた。
 静子は、気がさした様に、俄かにそれを閉ぢて以前《もと》の様に書《ほん》の間に重ねた。そして、逃げる様に室を出た。心はそこはかとなく動いて、若々しい鼓動が頻りに胸に打つた。
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