ずに自活の途を急がねばならぬ。それだのに、何故|這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》…………?
 懊《じ》れに懊《じ》れて待つた其人の、遂に来なかつた失望が、冷かに智恵子の心を嘲つた。二度と這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事は考へまい! と思ふ傍《かたはら》から、『矢張《やはり》女は全く放たれる事が出来ない。男は結局|孤独《ひとりぼつち》だ、死ぬまで。』と久子の兄に言つた其人の言葉などが思出された。書《ほん》を読む気もしない。学校へ行つてオルガンでも弾かうと考へても見た。ウツカリすると取留のない空想が湧く……。
 日が暮れると、近所の女児共《をんなこども》が螢狩に誘ひに来た。案外気軽に智恵子はそれに応じて、宿の二人の小供をも伴れて出た。出る時、加藤の玄関が目に浮んだ。其処には数々の履物に交つて赤革の夏靴が一足脱いであつた。小川のお客様も来てゐると清子の言つたソノ時、智恵子は、ア、これだ! と其靴に目を留めたつけ!
 村の螢の名所は二つ、何方《どつち》に為ようと智恵子が言出すと、小供らは皆|舟綱橋《ふなたばし》に伴れてつて呉れと強請《せが》んだ。
『彼方《あつち》には男生徒が沢山行つてるから、お前達には取れませんよ。』
 恁《か》う智恵子が言つた。女児等《こどもら》は、何有《なあに》男に敗けはしないと口々に騒いだが、結句《けつく》智恵子の言葉に従つて鶴飼橋に来た。
 夏の夜、この橋の上に立つて、夜目にも著《しる》き橋下の波の泡を瞰下《みおろ》し、裾も袂も涼しい風にハラめかせて、数知れぬ耳語《ささやき》の様な水音に耳を澄した心境《ここち》は長く/\忘られぬであらう。南岸《みなみぎし》の崖の木々の葉は、その一片々々《ひとつひとつ》が光るかと見えるまで、無数の螢が集つてゐて、それが、時を計つてポーツと一度に青く光る。川水も青く底まで透いて見える。と、一度にスツと暗くなる。また光る、また消える、また光る…………。其中から、迷ひ出る様に風に随つて飛ぶのが、上から下から、橋の下を潜り、上に立つ人の鬢《びん》を掠める。低く飛んだのが誤つて波頭に呑まれてその儘あへなく消えるものもある。
 低くなつた北岸《きたぎし》の川原にも、円葉楊《まるばやなぎ》の繁みの其方此方《そちこち》、青く瞬く星を鏤《ちりば》めた其|隅々《くまぐま》には、暗《やみ》に仄めく月見草が、しと/\と露を帯びて、一団《ひとかたまり》づゝ処々に咲き乱れてゐる。
 女児等《こどもら》は直ぐ川原に下りて、キヤツ/\と騒ぎ乍ら流れる螢を追つてゐる。智恵子は何がなしに、唯何がなしに橋の上にゐたかつた。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事は無い! と否《いな》み乍らも、何がなしに、若しや、若しや、といふ朦乎《ぼんやり》した期待《のぞみ》が、その通路《とほりみち》を去らしめなかつた。
 今日一日の種々《いろいろ》な心境《ここち》と違つた、或る別な心境が、新しく智恵子の心を領《し》めた。そこはかとなき若い悲哀《かなしみ》――手頼《たより》なさが、消えみ明るみする螢の光と共に胸に往来して、他《ひと》にとも自分にとも解らぬ、一種の同情が、自《おのづ》と呼吸《いき》を深くした。
 幸福とは何か? 這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》考へが浮んだ。神の愛にすがるが第一だ、と自分に答へて見た。不図智恵子は、今日一日全く神に背いて暮した様な気がして来た。『神に遁れる、といふ様な事も有得るですね。』と、何時だつたか信吾の謂つた言葉も思出された。智恵子の若い悲哀《かなしみ》は深くなつた。遂に讃美歌を歌ひ出した。
『……やーみ路《ぢ》をー、てーらせりー、かーみはーあーいーなりー。』
「愛」といふ語が何がなく懐しかつた。そして又繰り返した。『……あーいーなりー……。』
 下駄の音が橋に伝はつた。智恵子は鋭敏にそれを感じて、ツと振返つた。が、待構へてでも居た様に、不思議に動悸もしない。其人とは虫が知らしたのだが……。

     (九)の三

『日向|様《さん》ぢやありませんか?』
 恁《か》う言つて、吉野は近いて来た。
『マア、貴方で御座いましたか! 昨日《さくじつ》は失礼致しました。』
『僕こそ。』と言ひながら、男は少許《すこし》離れて鋼線《はりがね》の欄干に靠《もた》れた。『意外な所で再《また》お目にかかりましたね。貴女《あなた》お一人ですか?』
『否《いいえ》、小供達に強請《せが》まれて螢狩に。貴方も御散歩?』
『え。少し酒を飲まされたもんですから、密乎《こつそり》逃げ出して来たんです。実に好い晩ですねえ!』
『えゝ。』
 不図話が断《き》れた。橋の下の川原には、女児等《こどもら》が夢中になつて螢を追つてゐる。
 智恵子は、胸を欄干に推当てた故《せゐ》か、幽かに心臓の鼓動が耳に響く。其《その》間《ま》にも崖の木の葉が、光り又消える。
『貴女は、時々|被来《いらつしや》るんですか、此処等《ここいら》に?』
『否。……滅多に夜は出ませんですけれど。……今日は余り暑かつたもんで御座いますから!』
『あゝ然《さ》うですか!』
 話はまた断《た》れた。
『随分沢山な螢で御座いますねえ!』と、今度は智恵子が言つた。
『えゝ、東京ぢや迚《とて》も見られませんねえ。』
『左様で御座いませうねえ。』
『ア、貴女は以前東京に被居《いらしつ》たんですつてね?』
『え。』
『余程《よつぽど》以前ですか?』
『六七年前までゝ御座います。』
『然うでしたか!』と、吉野はただ何か言はうとしたが、立入つた身上《みのうへ》の話と気が付いて、それなり止めた。
 二人は又|接穂《つぎほ》なさに困つた。そして長い事|黙《もだ》してゐた。吉野は既《も》う顔の熱《ほて》りも忘られて、酔醒《よひざめ》の佗しさが、何がなしの心の要求《のぞみ》と戦つた。ツイ四五日前までは不見不知《みずしらず》の他人であつた若い美しい女と、恁《か》うして唯二人人目も無き橋の上に並んでゐると思ふと、平生《へいぜい》烈しい内心の圧迫を享け乍ら、遂《つい》今迄その感情の満足を図《はか》らなかつた男だけに、言ふ許りなき不安が、『男は死ぬまで孤独《ひとりぼつち》だ!』といふ渠《かれ》の悲哀《かなしみ》と共に、胸の中に乱れた。
 若しも智恵子が、渠の嘗《かつ》て逢つた様な近づき易き世の常の女であつたなら、渠は直ぐに強い軽侮の念を誘ひ起して、自《みづか》ら此不安から脱れたかも知れぬ。然し眼前の智恵子は、渠の目には余りに清く余りに美しく、そして、信吾の所謂|近代的女性《モダーンウーマン》で無いことを知つた丈に其不安の興奮が強かつた。自制の意《こころ》が酔醒《よひざめ》の佗しさをかき乱した。豊かな洗髪を肩から背に波打たせて、眤《じつ》と川原に目を落して、これも烈しく胸を騒がせてゐる智恵子の歴然《くつきり》と白い横顔を、吉野は不思議な花でも見る様に眺めてゐた。
 と、飛び交ふ螢の、その一つが、スイと二人の間を流れて、宙に舞ふかと見ると、智恵子の肩を辷《すべ》つて[#「肩を辷《すべ》つて」は底本では「肩《すべ》を辷つて」]髪に留つた。パツと青く光る。
『ア、』と吉野は我知らず声を立てた。智恵子は顔を向ける。其|機会《ひやうし》に螢は飛んだ。
『今螢が留つたんです、貴女の髪に。』
『マア!』と言つて、智恵子は暗《やみ》ながら颯《さつ》と顔を染めた。今まで男に凝視《みつめ》られてゐたと思つたので。
 で、二人の目は期せずして其一疋の螢の後を追うた。フラ/\と頭の上に漂うて、風を喰つた様に逆《さかさ》まに川原に逃げる。
『アレ、先生の方から!』
と、小供の一人が其螢を見付けたらしく、下から叫んだ。
『アレ! アレ!』
『先生! 先生!』
 と女児《こども》らは騒ぐ、螢はツイと逸《そ》れて水の上を横様《よこさま》に。
『先生! 下へ来て取つて下《くな》ンせ!』と一人が甘えて呼ぶ。
『今行きますよ。』と智恵子は答へた。下からは口を揃へて同じ事を言ふ。
『行つて見ませう!』恁《か》う吉野が言つて欄干から離れた。
『ハ、参りませう。』
『御迷惑ぢやないんですか貴女は?』
『否《いいえ》。』と答へる声に力が籠つた。『貴方こそ?』

     (九)の四

 昼は足を※[#「燬」の「臼」に代えて「白」、264−上−8]《や》く川原の石も、夜露を吸つて心地よく冷えた。処々に咲き乱れた月見草が、暗《やみ》に仄かに匂うてゐる。その間を縫うて、二人はそこはかとなく逍遙《さまよ》うた。
『その感想《かんじ》――孤独の感想《かんじ》がですね。』と、吉野は平生《いつも》の興奮した語調《てうし》で語り続けてゐた。『大都会の中央の轟然たる百万の物音の中にゐて感ずる時と、恁うした静かな村で感ずる時と、それア違ひますよ。矢張《やつぱり》何ですかね、新しい文明はまだ行き渡つてゐないんで、一歩都会を離れると、世界にはまだ/\ロマンチツクが残つてるんですね。畢竟《つまり》夢が残つてるんですね。』
『ハ!』
『夢を見る暇もない都会の烈しい戦争の中で、間断《ひつきり》なしの圧迫と刺戟を享けながら、切迫塞《せつぱつま》つた孤独の感を抱いてる時ほど、自分の存在の意識の強い事はありませんね。それア苦しいですよ。苦しいけれど、矢張新しい生活は其烈しい戦争の中で営まれるんですね。……が、です、田舎へ来ると違ひます。田舎にはロマンチツクが残つてます。夢が残つてます、叙情詩《リリツク》が残つてます。先刻《さつき》も一人歩いてゐて然う思つたんですが、この静かな広い天地に自分は孤独《ひとりぼつち》だ! と感じてもですね、それが何だか恁《か》う、嬉しい様な気がするんです。切迫塞つた苦しい、意識を刺戟する感想《かんじ》でなくて、余裕のある、叙情的《リリカル》な調子《トーン》のある……畢竟《つまり》周囲《あたり》の空気がロマンチツクだから、矢張夢の様な感想ですね。……僕は苦しくつて怺《たま》らなくなると何時でも田舎に逃出すんです。今度も然うです、畢竟《つまり》、僕自身にもまだロマンチツクが沢山《うんと》残つてます。自分の芸術から言へば出来るだけそれを排斥しなきや不可《いけな》い。然しそれが出来ない! 抽象的に言ふと、僕の苦痛が其努力の苦痛なんです。そして結局の所――』と激した語調《てうし》で続けて来て、
『結局の所、何方《どつち》が個人の生存――少くとも僕一個人の生存に幸福であるか解らない!』と声を落した。
 智恵子は眤《じつ》と俯《うつ》むいて、出来る丈男の言ふ事を解さうと努めながら歩いてゐた。
『貴女は寂しい――孤独《ひとりぼつち》だと思ふことがありますか?』と、突然吉野が問うた。
『御座います!』と、智恵子は低く力を籠めて言つて、男の横顔を仰いだ。
『貴女は親兄弟にも友人にも言へない様な心の声を何に発表されるんです? 唱歌《うた》にですか、涙にですか?』
『神様に……。』
『神様に!』と、男は鸚鵡《あうむ》返しに叫んだ。『神様に! 然うですねえ、貴女には神があるんですねえ!』
『…………』
『僕にはそれが無い! 以前にはそれを色彩《いろ》と形に現せると思つてゐたんですが、又、実際幾分づゝ現してゐたんですが、それがモウ出来なくなつた。』と言ひ乍ら、吉野は無造作に下駄を脱ぎ、裾を捲つて、ヒタ/\と川原の石に口づけてゐる浅瀬にザブ/\と入つて行く。
『モウパツサンといふ小説家は、自己の告白に堪へかねて死んだと言ひますがねえ……アヽ[#「アヽ」は底本では「アゝ」]、気持が好い、怎《ど》うです、お入りになりませんか?』
『ハ。』と言つて智恵子は嫣乎《につこり》笑つた。そして、矢張|跣足《はだし》になり裾を遠慮深く捲つて、真白き脛の半ばまで冷かな波に沈めた。
『マア、真箇《ほんと》に……!』
 吉野は膝頭の隠れる辺《あたり》まで入つて行く。二人は暫
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