『ホヽヽ。怎《ど》うして智恵子|様《さん》を誘つて上げなかつたの?』
『莫迦《ばか》な!』
『あら、月夜の散歩にはハイカラ|様《さん》の手でも曳かなくちや詰らないぢやありませんか? 真箇《ほんと》に!』
『何を言ふんです。』と信吾は苛々《いらいら》しく言つた。
そして、突然《いきなり》富江の手を取つて、『僕は貴女の迎ひに来たんだ!』
『マア巧い事を!』と、富江は左程驚いた風もなく笑つてゐる。
信吾は、女の余りに平気なのが癪に障つた。そして、不図怖ろしい考へが浮んだ。物言はずに女の手を堅く握る。
富江も暫しは口を利かないで、唯笑つてゐた。そして、
『私の手なんか駄目よ、信吾|様《さん》! 女の手の様ぢやないでせう?』
『…………』
『私は女ぢやないんですよ。』
『富江|様《さん》、』と言ひながら、信吾は無遠慮に女の肩に手をかけた。『そんなら貴女は第三性ですか? ハハヽヽ。』
『あ重い!』と言つたが逃げ様ともせぬ。そして、急に真面目な顔をして眤《じつ》と男の顔を見ながら、『真箇《ほんたう》よ、私|石女《うまずめ》なんですもの。子供を生まない女は女ぢやないでせう?』
そして、袂を口にあてて急にホホヽヽと笑ひ出した。
其夜信吾は十時過までも富江の宿にゐた。宿の主人の老書記は臨時に隔離病舎に詰めてゐる。主婦《おかみ》や子供らは踊に行つて留守であつた。
で、彼が家《うち》へ帰つてくると、玄関の戸がモウ閉つてゐた。信吾は何がなしにわが家ながら閾《しきゐ》が高い様な気がして、可成《なるべく》音を立てぬ様にして入つた。
(十一)の八
家《うち》に入つた信吾の心は、妙に臆《ひる》んでゐた。彼は富江と別れて十幾町の帰路を、言ふべからざる不愉快な思ひに追はれて来た。強烈《はげし》い肉の快楽《たのしみ》を貪つた後の浅猿《あさま》しい疲労《つかれ》が、今日一日の苛立つた彼の心を愈更《いやさら》に苛立たせた。『浅猿しい、浅猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はモウ此儘人知れず何処かへ行つて了ひたい様な気がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顔を思出すと、言ふべからざる厭悪の念が起る。そして又、段々家へ近付くにつれて、恋仇の吉野に対する自暴腹《やけツぱら》な怒りが強く発した。其怒りが又彼を嘲る。信吾は人に顔を見られたくなかつた。
で、可成《なるべく》音立てぬ様に縁側伝ひに自分の室に行く。家中モウ寝て了つたと見えて、森としてゐた。
と、離室《はなれ》に続く縁側に軽い足音がして、静子が出て来た。四辺《あたり》は薄暗い。
『アラ兄様《にいさん》、遅かつたわねえ。何処に居たんですか、今迄?』
『何処でも可《い》いぢやないか!』と、声は低く、然し慳貪《けんどん》だ。
『マア!』
信吾は、わが仇《かたき》の吉野の室《へや》に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒《いかり》が洪水の様に脳に溢れた。
『貴様こそ何処に行つてるんだ? 夜《よる》夜中人が寝て了つてから!』
静子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か厳しく詰責でもされる様で、信吾の憤怒《いかり》は更に燃える。
『莫迦野郎! 何処に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ静子を擲《なぐ》つた。
静子は矢庭に袂を顔にあてた。
『兄様……其様《そんな》……。』
『此方へ来い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドツと突倒した。
『此畜生《こんちくしやう》! 親や兄の眼を晦《くら》まして、…………』
『ワツ。』と静子は倒れた儘で声をあげた。先刻《さつき》町から帰つてから、待てども/\兄が帰らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者《なかうど》との話の発落《なりゆき》が気にかかつた。自分から聞かれる事でもなく、頼るは兄の信吾、その信吾が今日媒介者が来たも知らずにゐると思ふと、モウ心配で心配で怺《たま》らなくなつて、今も密《そつ》と吉野の室に行つて、その帰りの遅きを何の為かと話してゐた所。
静子は故なき兄の疑ひと怒が、悔《くや》しい、恨めしい、弁解をしようにも喉が塞《つま》つて、たゞ堅く/\袖を噛んだが、それでも泣声が洩れる。
『莫迦野郎!』と、信吾は再《また》しても唸る様に言つて、下唇《くちびる》を喰絞り、堅めた両の拳をブル/\顫はせて、恐しい顔をして突立つてゐる。
静子は死んだ様に動かない。
『よし。』と信吾はまた唸つた。『貴様はモウ松原に遣る。貴様みたいなものを家《うち》に置くと、何をするか知れない。』
『マ。』と言つて、静子はガバと起きた。『兄様……その松原から今日人が来て……それで……』
手荒く襖が開《あ》いて、次の間に寝てゐる志郎と昌作が入つて来た。
『怎《ど》うしたんだい兄様《にいさん》?』
『黙れ!』と信吾は怒鳴つた。『黙れ! 貴様らの知つた事か。』
そして、乱暴に静子を蹴る、静子は又ドタリと倒れて、先よりも高くワツと泣く。
『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて来た。『何だ? 夜更《よふけ》まで歩いて来て信吾は又何を其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》に騒ぐのだ?』
『糞ツ。』と云ひさま、信吾は再静子を蹴る。
『何をするツ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。
『何をするツ、貴様らこそ。』と、信吾はモウ夢中に咆《たけ》り立つて、突然《いきなり》志郎と昌作を薙倒《なぎたふ》す。
『コラツ。』と父も声を励して、信吾の肩を攫《つか》んだ。『何莫迦をするのだ! 静は那方《あつち》へ行け!』
『糞ツ。』と許り、信吾は其手を払つて手負猪《ておひじし》の様な勢ひで昌作に組みつく。
『貴様、何故俺を抑へた※[#疑問符感嘆符、1−8−77]』
『兄様!』
『信吾ツ!』
ドタバタと騒ぐ其音を聞いて、別室の媒介者《なかうど》も離室《はなれ》の吉野も馳けつけた。帯せぬ寝巻の前を押へて母のお柳も来る。
『畜生! 畜生!』と、信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。
(十二)
智恵子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から帰つてから、夜一夜苦み明した。お利代が寝ずに看護してくれて、腹を擦《さす》つたり、温めたタヲルで罨法《あんぱふ》を施《や》つたりした。トロ/\と交睫《まどろ》むと、すぐ烈しい便気の塞迫と腹痛に目が覚める。翌朝《あくるあさ》の四時までに、都合十三回も便所《はばかり》に立つた。が、別に通じがあるのではない。
夜が清々《すがすが》と明放れた頃には、智恵子はモウ一人で便所にも通へぬ程に衰弱した。便所は戸外《そと》にある。お利代が医師《いしや》に駆付《かけつ》けた後、智恵子は怺《こら》へかねて一人で行つた。行くときは壁や障子を伝つて危気《あぶなげ》に下駄を穿《つつ》かけたが、帰つて来てそれを脱ぐと、モウ立つてる勢《せい》がなかつた。で、台所の板敷を辛《やつ》と這つて来たが、室に入ると、布団の裾に倒れて了つた。抉《ゑぐ》られる様に腹が痛む。小供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓側の机の上にはまだ洋燈が朦然《ぼんやり》点《とも》つてゐた。
智恵子は堅く目を瞑《つぶ》つて、幽かに唸りながら、不図、今し方|戸外《そと》へ出た時まだ日出前の水の様な朝光《あさかげ》が、快く流れてゐた事を思出した。
『モウ夜が明けた。』
と覚束《おぼつか》なく考へると、自分は何日《いつ》からとも知れず、長い/\間|恁《か》うして苦んでゐた様な気がする。程経てから前夜の事が思出された。それも然し、ズツト/\以前《まへ》の事の様だ。
「今日アノ方が来て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、モウ夜が明けたのだもの!…………。スルト今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」
喧《かしま》しく雀が鳴く。智恵子はそれを遙《ずつ》と遠いところの事の様に聞くともなく聞いた。
『先生! 先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不図気がつくと、自分は其処で少し交睫《まどろ》みかけたらしい。お利代は加藤医師を伴れて来て、心配気な顔をして起してゐる。
『先生、まア恁※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》所に寝て、お医師様《いしやさん》が被来《いらつしや》いましたよ。』
『マア済みません。』
然う言つてお利代に手伝はれ乍ら臥床《とこ》の上に寝せられた。
室には夜ツぴて点けておいた洋燈の油煙やら病人の臭気《にほひ》やらがムツと籠つてゐた。お利代は洋燈を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髪乱れ、眼|凹《くぼ》み、皮膚《はだ》の沢《つや》なく弛《たる》んだ智恵子の顔が、モウ一週間も其余も病んでゐたものの様に見えた。
加藤は先づ概略《あらまし》の病状を訊いた。智恵子は痛みを怺へて問ふがまゝに答《こたへ》る。
『不可《いけ》ませんナア!』
と医師は言つた。そして診察した。
脈も体温も少し高かつた。舌は荒れて、眼瞼《がんけん》が充血してゐる。そして腹を見た。
『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の辺を押す。
『痛みます。』と苦気《くるしげ》な声。
『此処は?』
『其処も。』
『フム。』と言つて、加藤は腹一帯を軽く擦《さす》りながら眉を顰めた。
それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。
「赤痢だ!」と、智恵子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲哀《かなしみ》が湧いた。
智恵子の病気は赤痢――然も稍《やや》烈しい、チフス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には担荷に乗せられて、隔離病舎に収容された。お利代の家の門口には「交通遮断」の札が貼られて、家の中は石炭酸の臭気《にほひ》に充ち、軒下には石灰が撒かれた。
丁度智恵子が隔離病舎に入つた頃、小川の家では、信吾が遅く起きて、そして、今日の中に東京に帰らして呉れと父に談判してゐた。父は叱る、信吾は激昂する。結局「勝手になれ」と言ふ事になつて、信吾は言ひがたき不愉快と憤怒《いかり》を抱いてフイと発つた。それは午後の二時過。
吉野は加藤との約束があるので、留まる事になつた。そして直ぐにも加藤の家に移る積りだつたが、色々と小川家の人達に制《と》められて、一日だけ延ばした。小川家には急に不愉快な、そして寂しい空気が籠つた。
日が暮れると、吉野は一人町へ出た。そして加藤から智恵子の事を訊かされた。
吉野は直ぐ智恵子の宿を訊ねた。町には矢張《やはり》樺火《かばび》が盛んに燃えてゐた。彼は裏口から廻つて霎時《しばし》お利代と話した。そして石炭酸臭い一封の手紙を渡された。
それは智恵子が鉛筆の走り書。――恁う書《か》いてあつた。
[#ここから2字下げ]
御心配下さいますな。決して御心配下さいますな。お目にかかれないのが何より――病の苦痛《くるしみ》より辛《つら》う御座います。吉野|様《さん》、何卒《どうか》私がなほるまでこの村にゐて下さい。何卒、何卒。
屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]ちゑ
よしの様まゐる
(十三)の一
智恵子の容体は、最初随分危険であつた。隔離病舎に収容された晩などは知覚が朦朧になり、妄言《たはごと》まで言つた位。適切《てつきり》チフス性の赤痢と思つて加藤も弱つたのであるが、三日許りで危険は去つた。そして二十日過になると、赤痢の方はモウ殆んど癒つたが、体が極度に衰弱してるところへ、肺炎が兆《きざ》した。そして加藤の勧めで、盛岡の病院に入ることになつた。
吉野は病める智恵子と共に渋民を去つた。彼は有《あ》らゆるものを犠牲に払つても、必ず智恵子を助けねばならぬと決心してゐた。
信吾去り、志郎去り、智恵子去り、吉野去つて、夏二月の間に起つた種々《いろいろ》の事件《ことがら》が、一先《ひとま》づ結末《をはり》を告げた。
八月も末になつた。そして、静子は新しく病を得た。
静子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受
前へ
次へ
全22ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング