手紙を届けるべく、智恵子は渋民に帰つた翌日《あくるひ》の午前、何気なく加藤医院を訪づれたのであつた。
 玄関には、腰掛けたのや、上込んだのや、薄汚い扮装《なり》をした通ひの患者が八九人、詰らな相な顔をして、各自《てんで》に薬瓶の数多く並んだ棚や粉薬《こぐすり》を分量してゐる小生意気な薬局生の手先などを眺めてゐた。智恵子が其処へ入ると、有《ありつ》たけの眼が等しく其美しい顔に聚《あつま》つた。
『奥様は?』
『ハイ。』と答へて、薬局生は匙《さじ》を持つた儘中に入つてゆく。居並ぶ人々は狼狽《うろた》へた様に居住ひを直した。諄々《くどくど》と挨拶したのもあつた。
 今朝髪を洗つたと見えて、智恵子は房々した長い髪を、束ねもせず、緑の雲を被《かつ》いだ様に、肩から背に豊かになびかせた。白地に濃い葡萄色の矢絣《やがすり》の新しいセルの単衣に、帯は平常《ふだん》のメリンス、その整然《きちん》としたお太鼓が揺めく髪に隠れた。
 少し手間取つて、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]皇《そそくさ》と小走りに清子が出て来た。
『マア日向先生、何日《いつ》お帰りになりましたの? サ何卒《どうぞ》。』
『ハ有難う。昨日夕方に帰りました許《ばつか》りで。』
『お楽みでしたわねえ。サ何卒お上り下さいまし、……アノ小川|様《さん》のお客様も被来《いらつしつ》てますから。』
『ハ?』と智恵子は、脱ぎかけた下駄を止めた。
『吉野さんとか被仰《おつしや》る、画をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰《おつしや》つてで御座いますよ。』
『アノ、吉野さんが?』
『え。宅が小川|様《さん》で二三度お目にかゝりました相で、……昌作|様《さん》とお二人。マ何卒。』
『ハ有難う、アノウ……。』と言ひ乍ら、智恵子は懐から例の手紙を取出して、手短に其|由来《わけ》を語つて清子に渡した。
『マ然うでしたか。それは怎《ど》うも。……それは然うと、サ、サ。』と、手を引く許りにする。
『アノ一寸学校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』
『アラ、日向|様《さん》、其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、
『真箇《ほんと》よ、奥様《おくさん》。何れ後で。』
 智恵子は逃げる様にして戸外《そと》に出た、と、忽ち顔が火の様に熱《ほて》つて、恐ろしく動悸がしてるのに気がついた。

     (八)の二

 加藤の玄関を出た智恵子は、無意識に足が学校の方へ向つた。莫迦に胸騒ぎがする。
『何故《なぜ》那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に狼狽へたらう?』
 恁う自分で自分に問うて見た。
『何故那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に狼狽へたらう? 吉野|様《さん》が被来《いらしつ》てゐたとて! 何が怖かつたらう! 清子|様《さん》も可笑《をかし》いと思つたであらう! 何故那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に狼狽へたらう? 何も理由が無いぢやないか!』
 理由は無い。
 智恵子は一歩《ひとあし》毎に顔が益々|上気《のぼせ》て来る様に感じた。何がなしに、吉野と昌作が背後《うしろ》から急足《いそぎあし》で追駆《おつか》けて来る様な気がする。それが、一歩《ひとあし》々々に近づいて来る……………
 其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事は無い、と自分で譴《たしな》めて見る、何時しか息遣ひが忙《せは》しくなつてゐる。
 取留《とりとめ》もなく気がソワついてるうちに歩くともなくモウ学校の門だ。衝《つ》と入つた。
 職員室の窓が開《あ》いて、細い釣竿が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シヤツ一枚になつて、一生懸命釣道具を弄《いぢく》つてゐた。
 不図顔を上げると、
『オヤ日向|様《さん》、何日お帰りになりました?』
『ハ、アノ、昨日《きのふ》夕方に。』と、外に立つて頭《かしら》を下げる。洗ひ髪がさらりと肩から胸へ落つる。智恵子は、うるさい様にそれを手で後《うしろ》にやつた。
『面白かつたでせう? さ、マアお上りなさい。』
『否《いいえ》、アノ。』と息が少し切れる。『アノ私宛の手紙でも参つてゐませんでせうか?』
『奈何《どう》でしたか! あ、来ませんよ、神山|様《さん》の方の間違です。マお上りなさい。』
『ハ有難う御座います。一寸アノ、一寸、後《うしろ》の山へ行つて見ますから。』
『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハハヽヽ。マ可《い》いでせう?』
『ハ、何れ明日でも。』と行掛《ゆきかけ》る。
『ア、日向|様《さん》、貴女に少許《すこし》お願ひがありますがねえ。』
『何で御座いますか?』
『何有《なあに》、真《ほん》の些《ちよつと》した事ですがね。』と、森川は笑つてゐる。
『何で御座いますか、私に出来る事なら……。』と智恵子は何時になく悶《もど》かし相な顔をした。
『出来る事ですとも。』まだ笑つて、
『その何ですよ、過日《こなひだ》、否《いや》昨日か、神山|様《さん》にも一日お願ひしたんですがね。ソノ、私は鮎釣に行きますから、御都合の可《い》い時一日学校に被来《いらしつ》てゐて下さいませんか?』
『ハ、可《よ》う御座いますとも。何日《いつ》でも貴方の御出懸になる時は、アノ大抵の日は小使をお寄越し下されば直ぐ参ります。』
『然うですか。ぢやお願ひ致しますよ、済みませんが。』
『何日でも……。』と言つて、智恵子は足早に裏の方に廻つた。
 裏は直ぐ雑木の山になつて、下暗い木立の奥がコンモリと仰がれる。校舎の屋根に被《かぶ》さる様になつた青葉には、楢《なら》もあれば栗もある。鮮かな色に重なり合つて。
 便所の後《うしろ》になつてゐる上口《あがりぐち》から、智恵子はスタ/\と坂を登つた。
 木立の中から、心地よく湿つた風が顔へ吹く。と、そのコンモリした奥から愉しさうな昼|杜鵑《ほととぎす》の声。
 声は小迷《さまよ》ふ様に、彼方此方《あちらこちら》、梢を渡つて、若き胸の轟きに調《しらべ》を合せる。
 智恵子は躍る様な心地になつて、ツト青葉の下蔭に潜《くぐ》り込んだ。

     (八)の三

 やや急な西向の傾斜、幾年《いくとせ》の落葉の朽ちた土に心地よく下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、処々、虎斑《とらふ》の様に影を落して、そこはかとなく揺めいた。細き太き、数知れぬ樹々の梢は参差《しんし》として相交つてゐる。
 唆《そその》かす様な青葉の香が、頬を撫で、髪に戯れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。
『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隠れに昼杜鵑が啼く。酔つた様な、愉しい様な、切ない様な、若い胸の底から漂ひ出る様な声だ。その声が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何処ともなき青葉の※[#「王+倉」、254−下−9]《さや》ぎ!
 と、少し隔つた彼方《かなた》から、『ククヽヽクウ』と同じ声が起る。
『ククヽヽクウ、ククヽヽクウ。』と、背後《うしろ》の方からも。
『|漂へる声《ワンダリングブオイス》』とライダル湖畔の詩人が謳《うた》つた。それだ、全くそれだ。甘き青葉の香を吸ひ、流れるこの鳥の声を聞いては、身は詩人でなくても、魂が胸を出て、声と共にそこはかとなく森の下蔭を小迷《さまよ》うてゆく思ひがする。
 声の在所《ありか》を覓《もと》むる如く、キヨロ/\と落着かぬ様に目を働かせて、径もなき木蔭地《こさぢ》の湿りを、智恵子は樹々の間を其方《そなた》に抜け此方《こなた》に潜る。夢見る人の足調《あしどり》とは是であらう。髪は肩に乱れ、胸に波打ち、ハラ/\と顔にも懸る。それを払はうとするでもない。
 故もなく胸が騒いでゐる。酔つた様な、愉《たの》しい様な、切ない様な……宛然《さながら》葉隠の鳥の声の、何か定めなき思ひが、総身の脈を乱してゐる。
『ククヽヽクウ』と鳥の声。
「私ほど辛い悲しいものはない!」
 恁《か》う理由のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。ただ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。
『吉野さんが町に、加藤の家《うち》に来てゐる。』智恵子に解つてるのは之だけだ。
 初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の挙動《やうす》は、今猶明かに心に残つてゐる。然し言葉を交したのでもない。友の静子は耳の根迄紅くなつてゐた。その静子は又、自分とアノ人が端なくも※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車に乗合せて盛岡に行く時、田圃に出て紛※[#「巾+兌」、255−上−16]《ハンケチ》を振つた。静子の底の底の心が、何故か自分に解つた様な気がする。
『何故|那時《あのとき》、私はアノ人の背後《うしろ》に隠れたらう?』恁う智恵子は自分に問うて見る。我知らず顔が紅くなる。
 其晩、同じ久子の家に泊つた。久子兄妹とアノ人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の夜の風を、四人は甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に嬉《うれ》しんだらう! 久子の兄とアノ人との会話《はなし》が、解らぬ乍らに甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]に面白かつたらう!
『君は天才なんだ。』恁《か》う久子の兄が幾度《いくたび》か真摯《まじめ》に言つた。何かの話の時、
『矢張《やつぱり》女といふものは全く放たれる事が出来ん。男は結局一人ぼつちよ、死ぬまで。』
とアノ人が言つた!
 翌日《あくるひ》久子と大沢に行つて、昨日午前再び下小路《しもこうぢ》なる久子の家まで帰つた。
『日向|様《さん》は何日お帰りになります?』恁うアノ人が言つた。
『明日《あした》になさいな、ねえ!』と久子が側《かたは》らから言つた、『吉野|様《さん》も然う遊ばせな何卒。』
『否《いや》、僕は今日午後に発ちます。』
 遂に同じ汽車で帰つて、再会を約して好摩が原で別れた。
『それだけだ。』と智恵子は言つて見た。何が(それだけ)なのか解らぬ。(それだけ)が何《ど》れだけなのか解らぬ。
 解つてるのは、その吉野が今昌作と二人加藤の家にゐる事だけだ。或はモウ、加藤の家を出たかも知れぬ。出て而《さう》して、何処へ? 何処へ?
『ククヽヽクウ。』といふ声は遙《ずつ》と背後《うしろ》に聞えた。智恵子は何時しか雑木の木立を歩み尽きて、幾百本の杉の暗く茂つた、急な坂の上に立つてゐた。
 佶《きつ》と其下の方を見て居たが、何を思つてか、智恵子は急《いそが》しく其急な坂を下《くだ》り初めた。

     (八)の四

 タラ/\と急な杉木立の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下《お》り尽すと、其処は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奥に小《ささや》かな柾葺《まさぶき》の屋根が見える。大窪の泉と云つて、杉の根から湧く清水を大きい据桶に湛へて、雨水を防ぐ為に屋根を葺《ふ》いた。町の半数の家々ではこの水で飯《めし》を炊《かし》ぐ。
 蓊欝《こんもり》と木が蔽《かぶさ》つてるのと、桶の口を溢れる水銀の雫の様な水が、其処らの青苔や円《まろ》い石を濡らしてるのとで、如何《いか》な日盛《ひざかり》でも冷《すずし》い風が立つてゐる。智恵子は不図|渇《かつ》を覚えた。まだ午食《ひるめし》に余程間があると見えて、誰一人水汲が来てゐない。
 重い柄杓《ひしやく》に水を溢れさせて、口移しに飲まうとすると、サラリと髪が落つる。髪を被《かづ》いた顔が水に映つた。先刻《さつき》から断間《しきり》なしに熱《ほて》つてるのに、周辺《あたり》の青葉の故か、顔が例《いつも》よりも青く見える。
 智恵子は二口許り飲んだ。歯がキリ/\する位で、心地よい冷《つめた》さが腹の底までも沁み渡つた。と、顔の熱るのが一層感じられる。『怎《ど》して青く見えたか知ら!』と
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