もまだ帰らないの。』
『フム。』
『何がフムですか。昌作|様《さん》の歌を大変賞めてるから、行つて御礼を被仰《おつしやい》よ。』
『フム。家《うち》の信吾ぢやないし。』
『え? 信吾さんが?』
『知らない。』
『信吾|様《さん》が行くの? マア好い事聞いた。ホホヽヽヽ、マア好い事聞いた。』
と、富江はハヂケた様に一人で騒いで、
『マア好い事聞いた、信吾|様《さん》が智恵子|様《さん》の許《とこ》へ行くの。今度逢つたらウント揶揄《からか》つて上げよう。ホホヽヽ。』
 昌作は冷かに其顔を眺めてゐたが、
『可《い》けない/\。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]話、吉野|様《さん》の前なんかで言つちや可けませんぞ。』
『アラ、怎《ど》うして?』と忙《せは》しい眼づかひをする。
『だつて、詰らないぢやないですか。』
『詰らない? 言ひますよ私。』
『詰らない! 第一吉野|様《さん》の前で其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]事が言へますか? 豪い人だ。信吾の友達には全く惜しい人だ。』
『マア、大層見識が高くなつたのね?』
 すると昌作は、忽ち不快な顔をして黙つた。
『甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に豪いの、その方は?』
『時にですな、』と昌作は付かぬ事を言ひ出した。『今日は貴女に用を頼まれて来たんだ。』
『オヤ、誰方《どなた》から?』
 其時小使が駄菓子の袋を恭《うやうや》しく持つて入つて来た。

     (七)の二

『当てて御覧なさい。』と昌作はシタリ顔に拗ねる。
 其顔を、富江はマジ/\と見てゐたが、小使の出てゆくのを待つて、
『信吾|様《さん》から?』
 ピクリと昌作の眉が動いた。そして眼鏡の中で急《いそ》がしく瞬きをしながら顔を大きく横に振る。
『そんなら、誰方《どなた》?』
『無論、貴女の知つた人からだ。』と小憎らしく済したものだ。
『懊《じれ》つたい!』と自暴《やけ》に体を顫はせて、
『よ、誰方からツてばサ。』
『ハツハハ、解りませんか?』と、何処までも高く踏んで出る。
『好いわ、モウ聞かなくつても。』
『それぢや俺が困る。実はですね。』
『知りません。』
『登記所の山内君からだ。以前《これまで》貴女から「恋愛詩評釈」といふ書《ほん》を借りたことがあるさうだ。それを再《また》読みたいから俺に借りて来て呉れと言ふンですがね。』
『オヤ、何故御自分で被来《いらつしや》らないでせう?』
『だつて寝てるんだもの。』
『ぢやモウ、病床《とこ》に就いたの?』と低目に言つて、胡散臭《うさんくさ》い眼付をする。
『一昨日《をととひ》俺と鮎釣に行つて、夕立に会つたんですよ。それで以て山内は弱いから風邪を引いたんだ。』
『アラ昌作さん、山内|様《さん》は肺病だつてンぢや有りませんか?』
『肺病?』と正直に驚いた顔をしたが、『嘘だ!』
『嘘なもんですか。始終《しよつちゆう》那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]妙な咳をしてゐたぢやありませんか。……加藤さんが然《そ》言つてるんですもの。』
『肺病だと?』
『え。』と気がさした様に声を落して、
『だけど私が言つたなんか言つちや不可《いや》よ。よ、昌作|様《さん》、貴方も伝染《うつ》らない様に用心なさいよ。』
『莫迦な! 山内は那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]小い体をしてるもんだから、皆で色々《いろん》な事を言ふンだ。俺だつて咳はする――。』
『馬の様な咳を。ホホヽヽ。』と富江は笑つて、『誰がまた、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]一寸法師さんを一人前《ひとりまへ》の人|待遇《あつかひ》にするもんですか。』
 そして取つて付けた様にホホヽヽと再《また》笑つた。
『だから不可《いけな》い。』と昌作は錆びた声に力を入れて、『体の大小によつて人を軽重するといふ法はない。真箇《ほんと》に俺は憤慨する。家《うち》の奴等も皆《みんな》然うだ。』
『然うでないのは日向のハイカラ様《さん》許《ばつか》りでせう?』
 昌作は聞かぬ振をして、『英吉利《イギリス》の詩人にポープといふ人が有つた。その詩人は、佝僂《せむし》で跛足《ちんば》だつたさうだ。人物の大小は体に関らないサ。』と、三文雑誌ででも読んだらしい事を豪さうに喋る。
『大層力んで見せるのね。だけれど山内|様《さん》は別に大詩人でもないぢやありませんか!』
『それは別問題だ。……』と正直に塞《つま》つて、『それは然うと、今言つた書《ほん》を貸して下さい。』
『家《うち》に置いてあるの。』
『小使を遣つて取寄せて呉れるサ。』と頼む様な語調《てうし》。
『肺病患者なんかに!』と独言《ひとりご》つ様に言つて、
『アノね、昌作さん。』と可笑《をか》しさを怺《こら》へた様な眼付をする。『恁《か》う言つて下さいな、山内|様《さん》に。アノね、評釈なんか無くたつて解るぢやありませんかツて。』
『え? 何ですツて?』と昌作は真面目に腑に落ちぬ顔をする。
『ホホヽヽヽ。』と富江は一人高笑ひした。そして、『書《ほん》はね、後刻《あと》で誰かに届けさせますよ。』
 一時間程経つて、昌作は、来た時の様にブラリと、帽子も冠らず、単衣の両袖を肩に捲り上げて、長い体を妙に気取つて、学校の門を出た。
 そして川崎道の曲角まで来た時、三町|彼方《かなた》から、深張の橄欖色《オリイブいろ》の女傘《かさ》をさした、海老茶の袴を穿いた女が一人、歩いて来るのに目をつけた。『ハハア、帰つて来たナ。』と呟いて、足を淀《よど》めたが、ツイと横路へ入る。
 三日前に画家の吉野と同じ※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車に乗合せて、大沢温泉に開かれた同級会へ行つた智恵子は、今しも唯一人、町の入口まで帰つて来た。

     (七)の三

 小川家の離室《はなれ》には、画家の吉野と信吾とが相対してゐる。吉野は三十分許り前に盛岡から帰つて来た所で、上衣を脱ぎ、白綾の夏|直衣《ちよつき》の、その鈕《ボタン》まで脱《はづ》して、胡坐《あぐら》をかいた。
 その土産らしい西洋菓子の函を開き、茶を注《つ》いで、静子も其処に坐つた。母屋の方では、キヤツ/\と小妹《いもうと》共の騒ぐのが聞える。
『だからね。』と吉野は其友渡辺の噂を続けた。
『僕は中学の画の教師なんかやるのが抑《そもそ》も愚だと言つて遣つたんだ。奴だつて学校にゐた時分は夢を見たものよ。尤も僕なんかより遙《ずつ》と常識的な男でね。静物の写生なんかに凝つたものだ。だが奴が級友《なかま》の間でも色彩《いろ》の使ひ方が上手でね、活きた色彩を出すんだ。何色彩《なにいろ》を使つても習慣《コンベンシヨン》を破つてるから新しいんだよ。何時かの展覧会に出した風景と静物なんか、黒人《くろうと》仲間ぢや評判が好かつたんだよ。其奴《そいつ》が君、遊びに来た中学生に三宅の水彩画の手本を推薦してるんだからね。……僕は悲しかつたよ。否《いや》悲しいといふよりは癪に障つたよ。何といふのかな、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》具合で到頭埋もれて了ふのを。平凡の悲劇とでも言ふのかな……。』
『だつて君。』と信吾は委細呑込んだと言つた様な顔をして、『その人にだつて家庭《うち》の事情てな事が有《あら》アな。一年や二年中学の教師をした所で、画才が全然《すつかり》滅びるツて事も無からうさ。』
『それがよ、家庭の事情なんて事が縦頭《てんで》可《よ》くない。生活問題は誰にしろ有るさ。然し芸術上の才能は然《さ》うは行かない。其奴が君、戦つても見ないで初めツから生活に降参するなンて、意気地が無いやね。……とマア言つて見たんさ、我身に引較べてね。』
『ハハヽヽ。君にも似合はんことを言ふぢやないか。』とゴロリ横になる。
 其処へ、庭に勢ひよき下駄の音がして、昌作が植込の中からヒヨクリと出て来た。今しも町から帰つて来たので。
『ヤア、お帰りになりましたな。』と吉野に声をかける。
『否《いや》、モ少し先に。今日も貴君は鮎釣でしたか?』
『否《いいえ》。』と無雑作に答へて縁側に腰を掛けた。『吉野さん、貴方、日向さんと同じ※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車でしたらう?』
『え?』と静子が聞耳を立てる。
『然う、然う。』と、吉野は今迄忘れてゐたと言つた様に言つて、静子の方に向いた。『ソレ、過日《こなひだ》橋の上に貴女と二人立つてゐた方ですね。あの方と今日同じ※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]車に乗りましたよ。』
『アラ智恵子さんと。然うでしたか! よくお解りになりましたね。』と嫣乎《につこり》、何気なく言つた。
『否《いや》ソノ、何です、今話した渡辺の家《うち》で紹介されたんです。渡辺の妹君《シスタア》と親友なんださうで、偶然同じ家に泊つた訳なんです。』と、吉野は急《いそが》しく眼をパチつかせ乍ら、無意識に煙草に手を出す。
『オヤ然《さ》うでしたの!』
『然うかい!』と信吾も驚いて、『それは奇遇だつたな。実に不思議だ。』
『別段奇遇でも無からうがね。唯逢つただけよ。』と、吉野は顔にかゝる煙草の煙に大仰《おほぎやう》に眉を寄せる。
『昌作さんは何ですか、日向さんに逢つて来たの?』と信吾が横になつた儘で問うた。
『否《いや》。帰つて来た所を遠くから見ただけだ。』
『よツぽど遠くからね? ハヽヽ。』
 昌作はムツとした顔をして、返事はせずに、吉野の顔色を覗《うかが》つた。
 然うしてる所へ、母屋の方には賑かな女の話声。下女が前掛で手を拭きながらバタ/\駆けて来て、
『若旦那|様《さま》、お嬢様、板垣様の叔母|様《さま》が盛岡からお出《で》アンした。』
『アラ今日|被来《いらしつ》たの。明日かと思つたら。』と、静子は吉野に会釈して怡々《いそいそ》下女の後から出て行く。
『父の妹が泊懸《とまりがけ》に来たんだ。一寸行つて会つてくるよ。』
と信吾も立つた。昌作は何時の間にか居ない。
 吉野は眉間《みけん》の皺を殊更深くして、眤《じつ》と植込の辺《あたり》に瞳を据ゑてゐた。

     (八)の一

 智恵子は渡辺の家に一泊して、渡辺の妹の久子といふのと翌一日《あくるついたち》大沢の温泉に着いたのであつた。その夕方までには、二十幾名の級友大方臨渓館といふ温泉宿の二階に、県下の各地方から集つた。
 兎角女といふものは、学校にゐる時は如何に親くても、一度別れて了へば心ならずも疎《うと》くなり易い。それは各々《おのおの》の境遇が変つて了ふ為で、智恵子等のそれは、卒業してからも同じ職業に就いてるからこそ、同級会といふ様なものも出来るのだ。三年の月日を姉と呼び妹と呼んで一棟の寄宿舎に起臥《おきふし》を共にした間柄、校門を辞して散々《ちりぢり》に任地に就いてからの一年半の間《うち》に、身に心に変化のあつた人も多からうが、さて相共に顔を合せては、自《おのづ》から気が楽しかつた寄宿舎時代に帰つた。数限りなき追憶《おもひで》が口々に語られた。気軽な連中は、階下の客の迷惑も心づかず、その一人が弾くヴアイオリンの音に伴れてダンスを始めた。恁《か》くて此若い女達は翌《あくる》二日の夜更までは何も彼も忘れて楽みに酔うた。欠席したのは四人、その一人は死に、その一人は病み、他の二人は懐妊中とのことで。――結婚したのはこの外にも五六人あつた。
 各々の任地の事情が、また、事細かに話し交された。語るべき友の乏しいといふ事、頭脳《あたま》の旧い校長の悪口、同じ師範出の男教員が案外不真面目な事、師範出以外の女教員の劣等な事、これらは大体に於て各々の意見が一致した。
 中に一人、智恵子の村の加藤医師と遠縁の親籍だといふのがあつた。その女から、智恵子は清子に宛てた一封の手紙を托された。
 その
前へ 次へ
全22ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング