漸々《やうやう》霽《あが》つた。と、吉野は、買物|旁々《かたがた》、旧友に逢つて来ると言つて、其日の午後、一人盛岡に行くことになつた。

     (六)の二

 雨後の葉月空《はつきぞら》が心地よく晴渡つて、目を埋《うづむ》る好摩が原の青草は、緑の火の燃ゆるかと許り生々とした。
 小川の家では折角下男に送らせようと言つて呉れたのを断つて、教へられた儘の線路伝ひ、手には洋杖《ステツキ》の外に何も持たぬ背広|扮装《いでたち》の軽々《かろがろ》しさ、画家の吉野は今しも唯一人好摩|停車場《ていしやぢやう》に辿《たど》り着いた。
 男神《をがみ》の如き岩手山と、名も姿も優しき姫神山に挾まれて、空には塵一筋浮べず、溢るゝ許りの夏の光を漂はせて、北上川の上流に跨つた自然の若々しさは、旅慣れた身ながらに、吉野の眼にも新しかつた。その色彩の単純なだけに、心は何となき軽快を覚え、唆《そその》かす様な草葉の香りを胸深く吸つては、常になき健康を感じた。日頃、彼の頭脳《あたま》を支配してゐる、種々《いろいろ》の形象《かたち》と種々の色彩の混雑《こんがらが》つた様な、何がなしに気を焦立せる重い圧迫も、彼の老ゆることなき空の色に吸ひ取られた様で、彼は宛然《さながら》、二十《はたち》前後の青年の様な足調《あしどり》で、ツイと停車場の待合所に入つた。
 眩《まばゆ》い許りの戸外《そと》の明るさに慣れた眼には、人一人居ない此室《ここ》の暗さは土窟《つちあな》にでも入つた様で、暫しは何物《なに》も見えず、グラ/\と眩暈《めまひ》がしさうになつたので、吉野は思はず知らず洋杖《ステツキ》に力を入れて身を支へた。紛※[#「巾+兌」、243−上−19]《ハンケチ》を出して額の汗を拭き乍ら、衣嚢《かくし》の銀時計を見ると、四時幾分と聞いた発車時刻にモウ間がない。急いで盛岡行の赤切符を買つて改札口へ出ると、
『向側からお乗りなさい。』
と教へ乍ら背の低い駅夫が鋏を入れる。チラと其時、向側のプラツトホームに葡萄茶《えびちや》の袴を穿いた若い女の立つてゐるのが目についた。それは日向智恵子であつた。
 智恵子の方でも其時は気が付いて居たが、三四日前に橋の上で逢つた限《きり》、名も知り顔も知れど、口一つ利《き》いたではなし、さればと言つて、乗客と言つては自分と其男と唯二人、隠るべき様《やう》もないので、素知《そし》らぬ振も為難《しにく》い。夏中|逗留《とうりう》するといへば、怎《ど》うせ又顔を合せなければならぬのだ。
 それで、吉野が線路を横切つて来るのを待つて、少し顔を染め乍ら軽くS巻の頭を下げて会釈した。
『や、意外な処でお目に懸ります。』と余り偶然な邂逅を吉野も少し驚いたらしい。
『先日は失礼致しました。』
『怎《ど》うしまして、私《わたくし》こそ……。』と、脱《と》つた帽子の飾紐《リボン》に切符を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]みながら、『フム、小川の所謂|近世的婦人《モダーンウーマン》が此《この》女《ひと》なのだ!』と心に思つた。
 そして、体を捻つて智恵子に向ひ合つて、
『後で静子さんから承つたんですが、貴女は日向さんと被仰《おつしや》るんですね?』
『ハ、左様で御座います。』
『何れお目に懸る機会も有るだらうと思つてましたが、僕は吉野と申します。小川に居候に参つたんで。』
『お噂は、予《かね》て静子さんから承つて居りました。』
『来たよウ。』と駅夫が向側で叫んだので、二人共目を転じて線路の末を眺めると、遠く機関車の前部《まへ》が見えて、何やらキラ/\と日に光る。
『今日は何処《どちら》まで?』
『盛岡までで御座います。』
『成程、学校は明日から休暇なさうですね。何ですか、お家は盛岡で?』
『否《いいえ》。』と智恵子は慎謹《つつまし》げに男の顔を見た。『学校に居りました頃からの同級会が、明後日大沢の温泉に開かれますので、それでアノ、盛岡のお友達をお誘ひする約束が御座いまして。』
『然うですか。それはお楽みで御座いませう。』と鷹揚に微笑を浮べた。
『貴君は何処《どちら》へ?』
『矢張その盛岡までです。』
 吉野は不図《ふと》、自分が平生《いつ》になく流暢に喋つてゐたことに気が付いた。
 列車が着くと、これは青森上野間の直行なので車内は大分《だいぶ》込んでゐる。二人の外には乗る者も、降りる者もない。漸々《やうやう》の事で、最後の三等車に少許《すこし》の空席《すき》を見付けて乗込むと、その扉を閉め乍ら車掌が号笛《ふえ》を吹く。慌しく※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]笛が鳴つて、ガタリと列車が動き出すと、智恵子はヨラ/\と足場を失つて、思はず吉野に凭掛《よりかか》つた。

     (六)の三

 吉野は窓側へ、直ぐ隣つて智恵子が腰を掛けたが、少し体を動しても互の体温《あたたかさ》を感ずる位窮屈だ。女は、何がなしに自分の行動《しうち》――紹介もなしに男と話をした事――が、はしたない様な、否《いな》、はしたなく見られた様な気がして、『だつて、那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》切懸《きつかけ》だつたんだもの。』と心で弁疎《いひわけ》して見ても、怎《どう》やら気が落着かない。乗合の人々からジロ/\顔を見られるので、仄《ほんの》りと上気してゐた。
 北上山系の連山が、姫神山を中心にして、左右袖を拡げた様に東の空に連つた。車窓《まど》の前を野が走り木立が走る。時々、夥《おびただ》しい草葉の蒸香《いきれ》が風と共に入つて来る。
 程なく列車が轟《ぐわう》と音を立てて松川の鉄橋に差《さし》かかると、窓外《そと》を眺めて黙つてゐた吉野は、
『ア、那家《あれ》が小川の家《うち》ですね。』
と言つて窓から首を出した。線路から一町程離れて、大きい茅葺の家《いへ》、その周囲《あたり》に四五軒|農家《ひやくしやうや》のある――それが川崎の小川家なのだ。
 首を出した吉野は、直ぐと振返つて、
『小川の令妹《シスタア》が出てますよ。』
『アラ。』と言つて、智恵子も立つたが、怎《ど》う思つてか、外から見られぬ様に、男の背後《うしろ》に身を隠して、密《そつ》と覗いて見たものだ。
 静子は小妹《いもうと》共と一緒に田の中の畔路《あぜみち》に立つて、紛※[#「巾+兌」、245−上−9]《はんけち》を振つてゐる。小妹共は何か叫んでるらしいが、無論それは聞えない。
 智恵子は無性に心が騒いだ。
 帽子を振つてゐた吉野が、再び腰を掛けた時は、智恵子は耳の根まで紅くして極悪気《きまりわるげ》に俯向いてゐた。静子の行動《しうち》が、偶然か、はた意《こころ》あつて見送つたものか、はた又吉野と申合せての事か、それは解らないが、何《いづ》れにしても智恵子の心には、万一《もしや》自分が男と一緒に乗つてゐる事を、友に見られはしないかといふ心配が、強く動悸を打つた。吉野はその、極悪気《きまりわるげ》な様子を見て、『小川の所謂《いはゆる》近代的婦人《モダーンウーマン》も案外|初心《うぶ》だ!』と思つたかも知れない。
 その実男も、先刻《さつき》汽車に乗つた時から、妙に此女と体を密接してゐることに圧迫を感じてるので。
 それを紛らかさうとして、何か話を始め様としたが、兎角《とかく》、言葉が喉に塞《つま》る。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》筈はないと自分で制しながらも、断々《きれぎれ》に、信吾が此女を莫迦《ばか》に讃めてゐた事、自分がそれを兎や角|冷《ひや》かした事を思出してゐたが、腰を掛けるを切懸《きつかけ》に、
『貴女は何日《いつ》お帰りになります?』と何気なく口を切つた。
『三日に、アノ帰らうと思つてます。』
『然うですか。』
『貴方は?』
『僕は何日でも可いんですが、矢張三日頃になるかも知れません。』と言つたが、不図思ひついた事がある様に、『貴女は盛岡の中学に図画の教師をしてゐる男を御存じありませんか? 渡辺金之助といふ?』
『存じて居ります。』と、智恵子は驚いた様な顔をする。『貴方はアノ、那《あ》の方と同じ学校を……?』
『然《さ》うです。美術学校で同級だつたんですが、……あゝ御存じですか! 然うですか!』と鷹揚に頷いて、『甚※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》で居るんでせう? まだ結婚しないでせうか?』
『え、まだ為さらない様ですが。』と、※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた眼を男に注いで、『貴方はあの、渡辺さんへ被行《いらつしや》るんで御座いますか。』
『え、突然訪ねて見ようと思ふンですがね。』と、少し腑に落ちぬ様な目付をする。
『マア、左様《さう》で御座いますか!』と一層驚いて、『私《わたし》もアノ、其家《そこ》へ参りますので……渡辺さんの妹様《いもうとさん》と、私と矢張《やはり》同じ級《クラス》で御座いまして。』
『妹様と? 然うですか! これは不思議だ!』と吉野も流石に驚いた。
『アノ、久子さんと仰《おつしや》います……。』
『然うですか! ぢや何ですね、貴女と僕と同《おんな》じ家に行くんで! これは驚いた。』
『マア真箇《ほんと》に!』と言ひ乍ら、智恵子は忽ち或る不安に襲れた。静子の事が心に浮んだので。

     (七)の一

 宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣《あゆかけ》に出懸けた。
 休暇になつてからの学校ほど伽藍堂《がらんどう》に寂しいものはない。建物が大きいのと、平生耳を聾する様な喧騒《さわぎ》に充ちてるのとで、日一日、人ツ子一人来ないとなると、俄かに荒れはてた様な気がする。常には目立たぬ塵埃《ちりほこり》が際立つて目につく、職員室の卓子《テーブル》の上も、硯箱やら帳簿やら、皆取片付けられて了つて、其上に薄く塵が落ちた。
 懶《ものう》いチクタクの音を響かせてゐる柱時計の下で、富江は森川の帰りを待つ間の退屈を、額に汗をかきながら編物をしてゐた。暑い盛りの午後二時過、開け放した窓から時々|戸外《そと》を眺めるが、烈々たる夏の日は目も痛む程で、うなだれた木の葉に習《そよ》との風もなく、大人は山に、子供らは皆川に行つた頃だから、四周《あたり》が妙に静まり返つてゐる。其処へブラリと昌作が遣つて来た。
『暑いでせう外は。先刻《さつき》から眠くなつて/\為様《しやう》のないところだつたの。』と富江は椅子を薦める。年下の弟でも遇《あしら》ふ様な素振だ。
 それに慣れて了つて、昌作も挨拶するでもなく『暑い/\。』と帽子も冠らずに来た髪《け》のモヂヤ/\した頭に手を遣つて、荒い白絣の袖を肩に捲り上げた儘腰を下した。
『森川君は?』
『鮎釣に行つたの。釣れもしないくせに。』
『すると何だな、貴女が留守役を仰付かつて弱つてゐたんだな。ハハヽヽ好い気味だ。』
『口の悪い! 何が好い気味なもんですか。其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》事を言ふとお茶菓子を買ひませんよ。』と睨んで見せる。
『フム。』と昌作は妙に済し込んで、『御勝手に。』
『マア口許りぢやない人が悪くなつたよ、小供の癖に!』
と言ひながら、手を延ばして呼鈴の綱を引いて、『然う/\、一昨日は御馳走様。お客様はまだ帰つてらつしやらないの?』
『アーイ。』と彼方《かなた》で眠さうな声。
『まだ。今日か明日帰るさうだ。吉野|様《さん》がゐないと俺は薩張《さつぱり》詰らないから、今日は莫迦に暑いけれども飛出して来たんだ。』
『生憎と日向様もまだ帰らないの。』と富江は調戯《からか》ふ眼付で青年の顔を見た。其処へ白髪頭の小使が入つて来て用を聞いたので、女は何かお菓子を買つて来いと命ずる。
『ソラ、到頭買ふンだ。』と昌作はシタリ顔。
『私が喰べるのですよ、誰が昌作さんなんかに上げるもんですか。』と不減口《へらずぐち》を叩いて、『よ、昌作|様《さん》、ハイカラの智恵子さん
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