ウツカリして言つたのだが、智恵子の眼は実際羨まし相であつた。
『アラ、だから貴女も毎日|被来《いらつしや》いよ。これからお休暇《やすみ》なんですもの。』
『有難う。』と言つて、『私モウお別れするわ。何卒《どうぞ》皆様に宜敷!』
『一寸《ちよいと》。』とその袂を捉へて、『可いわよ、智恵子さん、モ少し。』
『だつて。那※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《あんな》に日が傾いちやつた。』と西の空を見る。眼は赤い光を宿して星の様に若々しく輝いた。
『構はないぢやありませんか、智恵子さん。家へ被来《いらつしや》いな再《また》!』
『この次に。』と智恵子は沈着《おちつ》いた声で言つて、『貴女も早くお帰りなすつたが可《い》いわ。お客様が被来《いらつしや》つたぢやありませんか。』と妹にでも言ふ様に。
『アラ、私のお客様ぢやなくつてよ。』と、静子は少し顔を染めた。心では、吉野が来た為に急いで帰つたと思はれるのが厭だつたので。
 それで、智恵子が袂を分つて橋を南へ渡り切るまでも、静子は鋼線《はりがね》の欄《てすり》に靠《もた》れて見送つてゐた。
 智恵子は考へ深い
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