眼を足の爪先に落して、帰路《かへりぢ》を急いだが、其心にあるのは、例《いつも》の様に、今日一日を空《むだ》に過したといふ悔ではない。神は我と共にあり! と自ら慰め乍らも、矢張、静子が何がなしに羨まれた。が、宿の前まで来た頃は、自分にも解らぬ一種の希望が胸に湧いてゐた。
 で、家に入るや否や、お利代に泣付いて何か強請《ねだ》つてゐる五歳《いつつ》の新坊を、矢庭に両手で高く差上げて、
『新坊さん、新坊さん、新坊さん、奈何《どう》したんですよウ。』
と手荒く擽《くすぐ》つたものだ。
 新坊は、常にない智恵子の此挙動に喫驚《びつくり》して、泣くのは礑《はた》と止めて不安相に大《おほき》く眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つた。

     (六)の一

 静子の縁談は、最初、随分|性急《せつかち》に申込んで来て、兎も角も信吾が帰つてからと返事して置いたのが、既に一月、怎《ど》うしたのか其儘《そのまま》になつて、何の音沙汰もない、自然、家でも忘られた様な形勢《かたち》になつてゐた。
 結局それが、静子にとつては都合がよかつた。母のお柳が、別に何処が悪いでなくて、兎角|優《すぐ
前へ 次へ
全217ページ中97ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング