道を渋民の町へ廻つて来たものであらう。智恵子も亦《また》、話は先刻《さつき》聞いたので、すぐそれと気が付いた。
『お嬢様《ぢやうさあ》、お嬢様|許《とこ》のお客様を乗せて来ただあ。』と、車夫の元吉は高い声で呼びかけ乍ら轅《かぢ》を止めて、
『あれがハア、小川様のお嬢様《じやうさあ》でがンす。』と俥上の人に言ふ。顔一杯に流れた汗を小汚い手拭でブルリと拭つた。
智恵子は、自分がその小川家の者でない事を現す様に、一足後へ退《すさ》つた。その時、傍《かたへ》の静子の耳の紅くなつてゐる事に気がついた。
『あ、然《さ》うですか。』と、俥上の人は鉛筆を持つた手で帽子を脱《と》つて、
『僕は吉野|満太郎《みつたらう》です。小川が――小川君が居ませうか?』
と武骨な調子で言ふ。
『ハ。』と静子は塞《つま》つた様な声を出して、『アノ、今日あたりお着き遊ばすかも知れないと、お噂致して居りました。』
『然うですか。ぢや手紙が着いたんですね?』と親げな口を利いたが、些《ちよい》と俯向加減にして立つてゐる智恵子の方を偸視《ぬす》んで、
『失礼しました、俥の上で。……お先に。』と挨拶する。
『私こそ……。』と静子
前へ
次へ
全217ページ中94ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング