きぢやないでせう?』
『でもないんで御座いますけれど……然し今夜は、真箇《ほんと》に楽う御座いました。』と遠慮勝に男を仰いだ。
『ハハヽヽ。』と笑つて信吾は杖《ステツキ》の尖《さき》でコツ/\石を叩き乍ら歩いたが、
『何ですね。貴女は基督教信者《クリスチヤン》で?』
『ハ。』と低い声で答へる。
『何か其方の本を、貸して下《くださ》いませんか? 今迄遂宗教の事は、調べて見る機会も時間もなかつたんですが、此夏は少し遣つて見ようかと思ふンです。幸ひ貴女の御意見も聞かれるし……。』
『御覧になる様な本なんぞ……アノ、私こそ此夏は、静子さんにでもお願して頂いて、何か拝借して勉強したいと思ひまして……。』
『否《いや》、別に面白い本も持つて来ないんですが、御覧になるなら何時でも……。すると何ですか、此夏は何処にも被行《いらつしや》らないんですか?』
『え。先《ま》ア其積りで……。』
路は小い杜《もり》に入つて、月光《つきかげ》を遮《さへぎ》つた青葉が風もなく、四辺《あたり》を香《にほ》はした。
(四)の八
仄暗い杜を出ると、北上川の水音が俄かに近くなつた。
『貴女《あなた》は小説
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