ゐる各々の頭脳《あたま》に、水の如く流れ込んだ。
(四)の七
淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光《つきかげ》が柔かに湿《うるほ》うてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂を蕩《とろ》かして、天地《あめつち》は限りなき静寂《しづけさ》の夢を罩《こ》めた。見知らぬ郷《くに》の音信《おとづれ》の様に、北上川の水瀬《みなせ》の音が、そのシツトリとした空気を顫はせる。
男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭脳《あたま》は、今までの華やかな明るい室の中の態《さま》と、この夜の村の静寂《しづけさ》の間の関係を、一寸心に見出しかねる…………と、眼の前に加留多の札がチラつく。歌の句が断々《きれぎれ》に、混雑《こんがらか》つて、唆《そそ》るやうに耳の底に甦る。『那《あ》の時――』と何やら思出される。それが余りに近い記憶なので、却つて全体《みな》まで思出されずに消えて了ふ。四辺《あたり》は静かだ。湿つた土に擦れる下駄の音が、取留めもなく縺《もつ》れて、疲れた頭脳が直ぐ朦々《もやもや》となる。霎時《しばし》は皆無言で足を運んだ。
田の中を逶《うね》つた路が細い。十人
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