つた。その清子の目からは亦《また》信吾の智恵子に対する挙動《しうち》が、全くの無意味には見えなかつた。そして富江の阿婆摺れた調子、殊にも信吾に対する忸々《なれなれ》しい態度は、日頃富江を心に軽《かろ》んじてゐる智恵子をして多少の不快を感ぜしめぬ訳にいかなかつた。
 九時過ぎて済んだ、茶が出、菓子が出る。残りなく白粉の塗られた顔を、一同《みんな》は互ひに笑つた。消さずに帰る事と、誰やらが言出したが、智恵子清子静子の三人は何時の間にか洗つて来た。富江が不平を言出して、三人に更《あらた》めて付けようと騒いだが、それは信吾が宥《なだ》めた。そして富江は遂に消さなかつた。森川は上衣の鈕をかけて、乾いた紛※[#「巾+兌」、228−上−9]《ハンケチ》で顔を拭いた。宛然《さながら》厚化粧した様になつて、黒い歯の間の一枚の入歯が、殊更らしく光つた。妖怪《おばけ》の様だと言つて一同《みんな》がまた笑つた。
 軈てドヤ/\と帰路《かへりぢ》についた。信吾兄妹も鶴飼橋まで送ると言つて一同と一緒に戸外《そと》に出た。雲一つなき天《そら》に片割月《かたわれづき》が傾いて、静かにシツトリとした夜気が、相応に疲れて
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