なくつて?』
初めて聞いた言葉ではないが、お利代は大きい眼を瞠《みはつ》て眤《じつ》と智恵子の顔を見た。何と答へて可《いい》か解らないのだ。
母は早く死んだ。父は家産を倒して行方が知れぬ。先夫は良い人であつたが、梅といふ女児《こども》を残して之も行方知れず(今は函館にゐるが)。二度目の夫は日露の役に従つて帰らずなつた。何か軍律に背いた事があつて、死刑にされたのだといふ。七十を越した祖母一人に小供二人、己《おの》が手一つの仕立物では細い煙も立て難くて、一昨年《をととし》から女教師を泊めた。去年代つた智恵子にも居て貰ふことにした。この春祖母が病付いてからは、それでも足らぬ。足らぬ所は何処から出る? 智恵子の懐から!
言つて見れば赤の他人だ。が、智恵子の親切は肉身《しんみ》の姉妹《きやうだい》も及ばぬとお利代は思つてゐる。美しくつて、優しくつて、確固《しつかり》した気立《きだて》、温かい情《こころ》……かくまで自分に親くしてくれる人が、またと此世にあらうかと、悲しきお利代は夜更けて生活《なりはひ》の為の裁縫をし乍らも、思はず智恵子の室に向いて手を合せる事がある。智恵子を有難いと思ふ心か
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